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鳴子温泉(大崎市・歴史)概要: 鳴子温泉(温泉街)の開湯は承和4年(837)、火山活動によって温泉が突如として湧き出た事が続日本後紀(天長10年:833から嘉祥3年:850までの18年間に国で起こった出来事を貞観11年:869年に編纂した歴史書)に記載されています。鳴子温泉の名称の由来は諸説あり、承和4年に温泉が湧き出た際、轟音が鳴り止まなかったからとも、平安時代末期に兄である源頼朝から追われた源義経が平泉(岩手県平泉町)に逃れた際、正室である北の方が亀割峠で亀若丸を出産、しかし、亀若丸は産声を出さず、当地の川原湯温泉に浸かった時、初めて産声をあげ「啼子(鳴子)」と呼ばれるようになったとも云われています。当時から鳴子温泉の源泉は神格化され、温泉神を祭神とする温泉神社として信仰され貞観5年(863)には従五位下、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では式内社として記載されています。当時、鳴子温泉は陸奥国玉造郡に属していた為、玉造の湯とも呼ばれ、平安時代に清少納言(平安時代の女流作家、歌人)によって随筆された「枕草子」の第百十七段に「湯は、ななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と歌われ日本三名泉にも数えられる「玉造の湯」は鳴子温泉とする説もあります。もっぱら、玉造り湯とは現在の玉造温泉(島根県松江市玉湯町)とする説が有力ですが笠間書房の能因本系「枕草子」ではどの様な根拠かは書かれていませんが注釈として鳴子町の玉造温泉を挙げています。温泉街として発展したのは江戸時代以降の事で、尿前の関(出羽街道沿いに仙台藩が設けた関所)の関守だった遊佐氏が湯宿を設けた事で、江戸時代中期には湯守に任ぜられ温泉街の開発に尽力しています。さらに、出羽街道が整備されると旅人や物資の往来が盛んになり次第に温泉街として発展し、江戸時代中期以降には庶民の行楽嗜好が高まり、湯治客だけでなく、出羽街道を利用して出羽三山への参拝客など多種多様な人々から利用されるようになりました。全国的に知名度が広がると庶民による温泉を順位付けした「諸国温泉効能鑑」にも名を連ねるようになり「仙台成子の湯」として前頭上位に位置付けられました。元禄2年(1689)には松尾芭蕉、曽良一行が奥の細道で出羽街道中山越で尾花沢へ抜けようとした際、鳴子温泉を通過しています(存在は知っていたようですが入湯はしていないようです)。数多くの源泉を持っている事から様々な泉質や効能の温泉が点在し、飯坂温泉(福島県福島市)、秋保温泉(宮城県仙台市)と共に奥州三名湯に数えられています。
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鳴子温泉 |
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鳴子温泉:周辺・観光・歴史・写真 |
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東鳴子温泉 |
 東鳴子温泉 |
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