いわき湯本温泉(日本三御湯・日本三古湯)概要: いわき湯本温泉(福島県いわき市・日本三古湯)が何時頃から開かれたのかは判りませんが、いわき湯本温泉の守護神で産土神である温泉神社(佐波古神社)は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記されている式内社である事から、少なくとも平安時代には著名な温泉地だった事が窺えます。平安時代の高僧として知られた徳一大師が温泉神社の境内に観音堂を創建し「戎・定・慧」の三箱を納めた事に因み「三箱」の地名が成立し、地名から「三箱の湯」と呼ばれていました。温泉街には徳一大師が創建したと伝わる三箱山勝行院(真言宗智山派)や長谷寺(曹洞宗)が境内を構え、長谷寺の鎌倉時代末期に製作された本尊の十一面観音像(福島県指定文化財)の胎内からは「奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也」と記された古文書が発見され、徳一大師と「いわき湯本温泉」との関係性が窺えます。平安時代の後期の長徳3年(997)に編纂された拾遺和歌集には「あかずして わかるる人の 住む里は さはこのみゆる 山のあなたか」、鎌倉時代後期に編纂された未木和歌集には「温泉の部・よとともに 歎かしきみを みちのくの さはこのみゆと いわせてし哉」の歌が載せられ、「さはこのみゆ」とは「三箱の湯」、即ち「いわき湯本温泉」の事を指しているとされます。
いわき湯本温泉(日本三古湯)の鎮守である温泉神社の創建年は不詳ですが、伝承によると天武天皇2年(674)に勧請されたのが始まりとされ小子部宿祢佐波古直足が初代神官に就任し貞観5年(863)には従五位下の神階を授かっています。上記の延喜式神名帳に記載されている式内社の中で温泉に関係ある神社は10社あり、明確に「温泉神社」として記載されているのは那須温泉神社(栃木県那須町・那須温泉)、鳴子温泉神社(宮城県大崎市鳴子町・鳴子温泉)、いわき湯本温泉神社の3社しかない事などから道後温泉(愛媛県松山市)、有馬温泉(兵庫県神戸市)と共に日本三古湯とされます(一般的な日本三古湯は日本書紀、風土記などの古文書で記載された道後温泉、有馬温泉、白浜温泉)。藻鹽草(五水邊)には温泉の名所として「伊豫温」、「有馬温」、「走温」、「那須温」、「犬飼御温」、「筑摩温」、「七久里温」、「蘆苅温」、「ましらこの浦の走温」、「かつまたのみ温」、「まくまのゝ温」、「御熊野温」、「さはこの御ゆ」、「名取御温」が記載されており「犬飼御温(長野県野沢温泉村:野沢温泉)」、「さはこの御ゆ(福島県いわき市:いわき湯本温泉)」、「名取御温(宮城県仙台市:秋保温泉)」だけが「御」の字が付けられている事から日本三御湯に数えられています(一般的な日本三御湯は順徳天皇が編纂した八雲御抄に記載された犬飼御温、しなののみゆ、なとりのみゆ=野沢温泉、別所温泉、秋保温泉)。
中世に入ると長く岩城氏が支配していましたが親交のある佐竹氏や田村氏などの近郊の大名もいわき湯本温泉に湯治に訪れ、永正7年(1510)には佐竹義舜と岩城盛隆、天正11年(1583)には佐竹義重が来訪したとの記録が残されています。江戸時代に入ると内藤氏が7万石で平藩を立藩し、藩主となった内藤忠興はいわき湯本温泉の温泉街に「湯本御殿」という藩主専用の別荘を設け、平藩の保養所として保護しました。寛文10年(1670)、平藩内藤家は遠山政亮(内藤忠興の次男)に1万石を分与して湯長谷藩が立藩、政亮は名君とされた人物で数々の功績を挙げ1万5千石まで所領を広げ、湯長谷城の築城や陸前浜街道の整備、城下町の建設などの実績をあげました。延享4(1747)に湯本温泉が天領となると街道筋唯一の温泉宿駅として発展し最盛期には年間約2万人前後の浴客が訪れ「湯女」と呼ばれる遊女も100人前後がいたそうです。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に調印し反政府軍となり領内が大きな被害を受け、1千石の減俸となり廃藩となります。明治時代に入ると近隣で石炭採掘が活発となり、明治35年(1902)には自噴出来なくなり、大正8年(1919)にはポンプによる揚湯も完全に枯渇し、温泉街も大きく衰退する事になりました。昭和17年(1942)に炭鉱会社の敷地内にあった湯脈からの温泉が再利用されるようになり、昭和51年(1976)に炭鉱が閉鎖された事に伴い、本格的に新源泉の発掘が行われました。いわき湯本温泉は月岡温泉(新潟県新発田市)、磐梯熱海温泉(福島県郡山市)と共に磐越三美人湯に数えられています。いわき湯本温泉の共同浴場は「さはこの湯」、「東湯」、「上の湯」の3箇所で低料金で利用出来ます。
いわき湯本温泉泉質: 含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉
いわき湯本温泉効能: 一般的適応症・慢性皮膚病・慢性婦人病・切り傷・糖尿病・火傷・動脈硬化症・虚弱児童
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