榊原温泉(日本三名泉)概要: 榊原温泉(三重県津市)が何時頃に開かれていたのかは判りませんが、 温泉街の背後にある貝石山は榊原断層と呼ばれる断層があり、古来からその断層から温泉が湧出ていた事から霊山として信仰の対象になっていたと思われます。貝石山の8合目付近には温泉の守護神として大巳貴命と少彦名命の分霊が勧請され射山神社が創建され、延長5年(927)に全国の格式の高い神社が記載された延喜式神名帳では式内社として名を連ねています。社号である「射山」も「湯山」が転じたものと推定され榊原温泉の守護神(温泉大明神)として現在に至るまで信仰されています。中世は長く当地を支配した榊原氏(仁木義長の後裔である仁木利長が当地に配され地名因み榊原氏を称した。)が崇敬庇護し、社運も隆盛しましたが、戦国時代に没落すると、天正16年(1588)に温泉街で、旧御旅所だった現在地に遷座しています。
継体天皇(第26代天皇・在位:西暦507〜531年)の御代の頃 には既に榊原温泉の事が中央にも知られていたようで、天皇の第6皇女の荳角媛命(ササギヒメノミコト)が伊勢神宮(三重県伊勢市・祭神:天照大神)の斎王になる際、物部伊勢小田連が温泉街から湧出る霊水に近くに自生していた榊を一晩浸し伊勢神宮に献納したとされ、この「榊」が地名の由来となり、霊水は「長命水」と呼ばれるようになっています。平安時代中期に清少納言によって製作された随筆「枕草子」の能因本第117段に「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と日本三名泉を示す記述があり、有馬の湯は現在の有馬温泉(兵庫県神戸市)、玉造の湯は現在の玉造温泉(島根県松江市)又は鳴子温泉(宮城県大崎市鳴子町)とされ、「ななくりの湯」は長くどこの温泉地の事を指しているか判りませんでした。1つの有力な説が「榊原温泉」で継体天皇の御代以前は七栗上村や七栗郷と呼ばれていたとし、鎌倉時代後期に編纂された「夫木和歌抄」に収載されている「いちしなる 岩ねに出づる七くりの けふはかひなきゆにもあるかな」や「いちしなる 七くりの湯も君が為 こひしやますときけば物うし」などは「七くりの湯」の事を歌枕として歌われた歌で、「いちし」は地名の「一志」の事で榊原温泉が一志郡に属している事が理由となっています。又、榊原温泉は中央から伊勢神宮への参拝経路の1つでもあり「神湯」や「宮の湯」と呼ばれている事から当時は中央にもかなり著名な温泉地だった事が推察され、榊原温泉説を後押ししています。
江戸時代に入ると一般庶民にも行楽嗜好が高まり、伊勢神宮 の参拝目的に多くの人が訪れるようになり、榊原温泉は湯治と共に、伊勢神宮参拝へ体と心を清める斎戒沐浴や湯垢離として利用されるようになり大きく繁栄しました。当初は上記のように貝石山の山麓から源泉が湧出ていましたが、時代が下がると枯渇し、現在の射山神社の社殿の背後の河原から湧出るようになり、次第に湯屋や宿所が設けられるようになったとされます。江戸時代中期の正徳4年(1714)の火災により温泉街は大きな被害を受けると、津藩(三重県津市:本城−津城)の藩主藤堂家が再興に尽力し、湯屋(大湯船2箇所、小湯船1箇所、座敷)や客舎(長屋形式の建物、東西5棟、南北2棟、総部屋数78室)、番屋2棟などが造営されています。現在は大型の温泉施設が多く、鄙びた温泉街の雰囲気は余り感じませんが、現在でも「榊」は伊勢神宮へ奉納しているなど歴史が息づいています。
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