浅間温泉概要: 浅間温泉(長野県松本市)は比較的早く から開発が進んだ土地柄、5世紀末(西暦400年代末)に築造されたと推定されている桜ヶ丘古墳があります。桜ヶ丘古墳は直径15mの円墳で竪穴式石室の中からは三角板革綴衝角付胄(1点)、革綴頸甲(1点)、長方板革綴短甲(1点)、剣(5点)、直刀(1点)、矛(1点)、鏃(5点)、金銅製天冠(1点)、竹製竪櫛(1点)、製勾玉(1点)、ガラス製丸玉(9点)、ガラス製小玉(32点)、滑石製臼玉(5点)が出土し何れも平成22年(2010)に「桜ヶ丘古墳出土品」として長野県宝に指定されています。この事から浅間温泉を拠点して大きな影響力があった豪族が当地域を支配していた事が推察され、副葬品である金銅製天冠が朝鮮半島のものと類似する部分が多い事から大陸との関係性が窺えます。
古代人が浅間温泉を利用していたのかは判りませんが、時代が下がった 飛鳥時代には浅間温泉の周辺が信濃国の重要拠点として開発が進み、奈良時代には信濃国の国府が現在の上田市から松本市の筑摩神社(旧国府八幡宮)付近に移されたと推定されています。平安時代に編纂された「日本書紀」によると白鳳14年(684)に天武天皇(第40代天皇・在位:西暦673〜686年)が「信濃に遣わして行官を造らしむ。蓋し束間の温湯に幸せんと擬すか」との記述があり、束間は筑摩に通じ、当時この地域は筑摩と呼ばれ、上記のように奈良時代には国府が遷されている事から「束間の温湯」は浅間温泉の事を指すと推定されています。同時期に成立した現存する日本最古の和歌集「万葉集」に記載されている「紅の 浅葉の野らに 刈る草の 束の間も 我れを忘らすな」、「浅葉野に 立ち神さぶる 菅の根の ねもころ誰がゆゑ 我が恋ひなくに」の「浅葉」が転じて「浅間」になったとも云われています。清少納言の随筆「枕草子」能因系本の387段には、「出で湯は、ななくりの湯、有馬の湯。那須の湯。つかさの湯。ともの湯」との記載があり、この「つかさの湯」は「束の間の湯=浅間温泉」の事を指しているという説もあります。
ただし、浅間温泉に伝わる伝承ではさらに時代が下がった 天慶2年(939)に犬飼半左衛門が見つけたのが始まりとしているので、その間忘れられていたのかも知れません。犬飼氏は大和朝廷時代の部民制で犬を飼養・使用を生業とし大和朝廷に仕えた部族の事を犬養部呼び、信濃国では数多く犬養部が配されたと推定される事から、その後裔と思われます。浅間温泉も暫くは「犬飼の湯」と呼ばれていたようですが、鎌倉時代の正式の歴史書である「吾妻鏡」には浅間温泉の産土神である御射神社と思われる社の事を「浅間社」として表現されている事からこの頃には浅間の地名が成立していたと推定されます。室町時代に入ると信濃国の浅間宿が設けられた事で、当地に赴任する国司を周辺の大名が迎えたとされます。天正18年(1590)、小田原攻めで大功があった石川数正が10万石で松本城(長野県松本市)に配されると松本城や城下町の大改修が行われ、同時に浅間温泉には御殿湯(別荘)が設けられ、家臣達も続いた事から次第に温泉街が形成され何時しか「松本の奥座敷」の別称が付けられています。又、温泉街の一角には松本城の城主だった小笠原貞慶(大隆寺殿)の菩提寺である大隆寺があった事から小笠原忠脩(法性寺殿)が死去すると、支院で境内にあった法性寺に葬られ、さらに父親で大坂の陣で討死した小笠原秀政(臨済寺殿)の供養塔が建立されました。小笠原一族がこの地から去ると墓地が荒廃した為、当時の松本藩の藩主水野忠直の命により3基の五輪塔が集められ霊廟が設けられています。現在、霊廟は焼失してありませんが、五輪塔が残され「御殿山小笠原家廟所」として松本市指定史跡が指定されています。
明治時代以降は文人墨客が数多く訪れるようになり、アララギ派発祥の地となり、 温泉街にはアララギ派を中心に伊東左千夫(秋風の浅間のやどり朝つゆに、あめのと開く乗鞍の山)、与謝野晶子(たかき山つつめる雲を前にして 紅き灯にそむ浅間の湯かな)、荻原井泉水(しなのは 山と月と 父のふる里)、花ノ本聴秋(虹吐いて 夏よせつけぬ 瀑布かな)、石井柏亭(あたたかき春の日あびて丘に立ち 国やぶれしをしばし忘れつ)、老鼠堂機(咲て見せ散て見せたる さくらかな)、木村素衛(真実は実在を愛する人にとっては自己の死は何でもない。大きな交響曲の一音が私の一生であろう。発すべき時に発すべき音を発したとき そして消えた時それで一切はいい 秋雨よ静かに降り続け)など温泉街には数多くの詩碑や歌碑が建立されています。
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