別所温泉概要: 別所温泉(長野県上田市)が何時頃から開かれたのかは判りませんが、伝承によると日本の神話に登場してくる日本武尊によって発見され、信濃国(現在の長野県)最古の温泉とも云われています。日本書紀によれば、日本武尊は陸奥国(現在の宮城県・岩手県・青森県)を平定すると武蔵国(現在の東京都・埼玉県)、上野国(現在の群馬県)を廻り、東山道を利用して信濃国に至っている事が記載され、別所温泉のある塩野平には実際に東山道が通っていました。日本武尊が実在の人物で、別所温泉を発見者かは判りませんが、同じ上田市内には古い時代の信濃国府が置かれていた事は確実で、信濃国分寺や信濃国分尼寺が置かれ、東山道という官道が近くを通過していた事から相当古くから別所温泉の存在が中央にも聞こえていたようです。又、「別所」という地名の由来には
別所温泉の温泉街には将軍塚と呼ばれる古墳時代後期に円墳(周囲10m余、高さ3m余)が築かれている事から6世紀前半には塩田平を支配する豪族が存在し、別所温泉周辺が本拠地としていた可能性が高いと考えられます。最も、現在の将軍塚は信州戸隠山に巣食う鬼女「紅葉」との戦いの傷で当地で死去したと伝わる平維茂の墳墓として信仰されているようで頂上部には石碑や石搭が建立されています。別所温泉が本格的な開発が始まるのは8世紀に入ってからで、名僧として知られた行基菩薩が温泉街に長楽寺・常楽寺・安楽寺の3ヵ寺を開山し天長2年(825)に慈覚大師円仁が北向観音を開創したと伝えられています(長楽寺は廃寺となり常楽寺と安楽寺は現在でも存在しています)。本当に行基菩薩や慈覚大師円仁が別所温泉を訪れたのは不詳ですが、塩野平を含む周辺では大法寺(青木村)が大宝元年(701)に文武天皇の勅願により開山、中禅寺(上田市)が天長年間(824〜834年)に弘法大師空海が草庵を設ける、前山寺(上田市)が弘仁年間(810〜824年)に弘法大師空海が修行場を設けるなど奈良時代から平安時代初期にかけて有力寺院が次々と開かれています。北向観音の近くの温泉街の一角にある大師湯は慈覚大師円仁が北向観音堂を造営した際に入湯したとの伝承が残されています。
鎌倉時代に入ると名湯としての知名度が大きく広がり、順徳天皇が編纂した歌論書「八雲御抄」には全国の名湯が複数採り上げられる中、「名取湯」、「信濃湯」、「犬養湯」の3つの温泉地だけが名称の後ろに「御」の字が加えられていた事から、この3つの名湯の事を「日本三御湯」として特別視されていたようです。「御」の字は天皇や朝廷と深い繋がりを示しているとも云われ、この中の「信濃湯」所謂「信濃御湯」は別所温泉の事を指している事から、別所温泉は当時から中央と関係が深い存在だったのかも知れません。又、同書では信濃御湯と七久里の湯は同じ意味との記載があり、七久里の湯とは室町時代に万里集九が提唱した日本三名泉や江戸時代に林羅山が提唱した日本三名泉以前に清少納言の随筆「枕草子」で提唱している日本三名泉の1つとされ、そこでは「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と記載されています。別所温泉を発見したとされる日本武尊は仙人により源泉の場所を教えられたとされ、その源泉の数は7つで、何れも功能が異なり、7つの苦難を取り除く事が出来る事から「七苦離の湯」と呼ばれ、それが転じて「七久里の湯」と呼ばれるようになったとも云われています。
鎌倉時代中期になると、鎌倉幕府執権北条氏の一族が塩田平を本拠として地域一帯を治め、別所温泉にある安楽寺や常楽寺、北向観音などの再興に尽力し「信州の鎌倉」との異名を持つまでになりました。しかし、塩田北条氏は鎌倉幕府滅亡の際には、鎌倉に駆けつけ、北条氏一族と共に自刃した為、それらの寺院は庇護者を失い衰微する事になります。唯一当時の遺構として残された安楽寺八角三重塔は歴史的に古いだけではなく、八角形の平面を持つ珍しい三重塔で意匠的にも優れ、極めて貴重な事から国宝に指定されています。当時の建物は安楽寺八角三重塔しかありませんが、温泉街には常楽寺や北向観音、塩田平には塩田北条氏の菩提寺の龍光院、居城だった塩田城の城址、古刹である中禅寺や大法寺、前山寺、崇敬社だった生島足島神社や塩野神社などが点在しています。
江戸時代に入ると上田藩(長野県上田市:本城−上田城)の藩主が開発に努め、特に江戸時代中期以降は庶民の行楽嗜好が高まり、湯治や北向観音の参拝者が数多く訪れようになり温泉街は活況に呈しました。特に北向観音は長野善光寺(長野県長野市)と対の関係で「片方だけでは片参り」と歌われ、両方を参拝するのが常とされました。
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