行基菩薩・概要: 行基菩薩は奈良時代の高僧で日本で初めて最高位である大僧正の称号を得ています。 当寺の仏教は朝廷内の天皇や皇族など限られた範囲内でしか布教を禁じられていましたが、行基菩薩はその禁を破って、関西一円、身分を問わず仏教の布教を行った事で朝廷や旧勢力から酷い弾圧を受けました。一方、行基菩薩は現在でいう公共事業や慈善事業、社会事業などを積極的に行う事で一般民衆や地方豪族から篤い支持を受け爆発的に仏教の教えを広めました。これにより、朝廷も弾圧を緩め、逆に行基を取り込む事で民衆の力をまとめ、公共事業に割り当てさせました。奈良東大寺の大仏建立にも尽力し、事実上の責任者である勧進に指名されにより東大寺の「四聖」の一人に数えられ、朝廷からは大僧正や菩薩の称号が与えられました。
行基の布教は奈良を中心に関西一円で、当地方には行基が開基や開山したという寺院や、逸話、伝承、伝説も数多く伝えられています。一方、全国を巡錫する傍ら、行基図と呼ばれる日本地図を作成したり、行基が主催したと思われる教団が各地で布教や公共工事を行っている事から、全国には数多くの行基縁の寺院が存在しています。
草津温泉の開湯伝説: 草津温泉の湯畑背後の高台に境内を構える光泉寺に、草津温泉の由来を記載した 「温泉奇功記」が伝えられており、それによると養老5年(721)、行基菩薩が全国に巡錫していた際、草津の地で道に迷い、霊気漂う方に導かれたそうです。ある地点までくると地面から仁恵(思いやりの心と、恵み、人の心情を思ってかける恵み。いつくしみ。なさけ。)の気があふれる霊地があった事から行基が祈祷を行うと滾々と霊泉が湧き出したと伝えられています。行基はこの霊泉が万病に効く温泉と悟り、温泉に縁のある薬師如来像を自ら彫刻し薬師堂を創建、その後、その霊験は草津温泉の効能と共に広がり何時しか草津温泉は日本三名泉、薬師堂は日本三大温泉薬師に数えられるようになりました。
その後、荒廃したようですが正治2年(1200)、当時の草津温泉の湯守だった湯本氏が草津温泉の鎮守である白根神社の別当寺院として再興し、寺号を光泉寺に改めています。茅葺屋根で異彩を放つ釈迦堂は元禄16年(1703)に外嶋玄賀宗静(江戸出身の医師)の発願で湯本弥五右衛門によって建てられたもので、奈良東大寺公慶上人が彫刻した釈迦像を宗静が譲り受け本尊として祀られています。
又、群馬県内には同じく行基の開湯伝説が残る伊香保温泉(渋川市伊香保町)や藪塚温泉(太田市薮塚町)、行基が草庵を結んだ事を起源とする安楽寺(千代田町)、甘楽郡甘楽町を流れる三途川は行基が命名したとされ、自ら彫刻した奪衣婆像は三途橋のたもとに建立されている姥子堂に安置されています。
日本三大温泉薬師
・ 草津温泉(群馬県草津町):光泉寺−養老5年に行基菩薩により創建。
・ 有馬温泉(兵庫県神戸市):温泉寺−養老8年に行基菩薩により創建。
・ 山中温泉(石川県加賀市):医王寺−天平年間に行基菩薩により創建。
行基菩薩は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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