岡本太郎・概要: 岡本太郎は明治44年(1911)、父親は漫画家、母親は歌人や作家であった事から所謂芸術家族の一員として生まれました。幼少期は学校に馴染めず成績も悪かったとされますが、画才には恵まれ東京美術学校へ進学し、父親の仕事都合もありパリなどで10年間過しています。パリ時代にピカソの作品に触れ強烈な刺激を受けたとして、後に「青春ピカソ」を出版しています。太平洋戦争が始まった事で日本に戻り帝国陸軍の兵士として召還され中国戦線に送り出されています。戦後、中国の長安で半年間俘虜となりましたが、その後開放され、焼け野原となった東京の自宅から世田谷の上野毛に新たにアトリエを構え積極的に作品の製作に精力を傾けました。 昭和26年(1951)に東京国立博物館で縄文火焔土器を見てピカソ以来の強い衝撃を受け、以後、東北の民俗的な意匠など日本の土着的な文化に傾倒し「四次元との対話―縄文土器論」や「縄文土器論」などを発表しています。昭和29年(1954)にアトリエ兼自宅を東京都港区青山に移し、昭和45年(1970)には代名詞にもなった大阪万国博覧会の「太陽の塔」を製作、奇抜なデザインから批判も多かったものの昭和50年(1975)には「太陽の塔」の永久保存が決定し、今では大阪万国博覧会といったら「太陽の塔」が思い浮かぶ程の大阪のシンボルの1つとなっています。又、「芸術は爆発だ」などの名言を残した事でも知られ印象深く日本を代表する芸術家でした。
草津温泉の湯治伝説: 岡本太郎が草津温泉(日本三名泉)を訪れたのが昭和50年(1975)、湯治とスキー(岡本太郎はスキー愛好家としても知られています。)が目的で当時の草津町町長が経営していた旅館に宿泊していたところ、草津町の町づくりの話が弾み、草津温泉の象徴的な存在の湯畑周辺のデザインが依頼されたそうです。現在見られる周囲が瓢箪型(当時は長方形の平面だったものを瓢箪型にする事で有機的な流れが出来、内部に設けられた直線的な木樋と対の関係となり湯畑がより象徴的になったと思われます)の石柵(御影石製)や湯畑を1周出来る遊歩道「歩道といこいの場」は岡本太郎の設計によるものです。
岡本太郎・概要: 湯畑は草津温泉の中心的な存在で、約1600uの広さから約60℃の源泉が毎分46000リットル湧き出ています。源泉の温度的には高温で入浴には適してない為に、木樋を通して外気と触れさせる事で温度を下げ、多くの温泉宿に配られ内湯として利用されています。古くから名湯として知られ享保11年(1726)には湯畑から汲み上げた源泉を江戸城まで運び、御殿の湯殿で8代将軍徳川吉宗が楽しんだ事から「御汲上げの湯」としてさらなる名声を広げました。
又、湯畑は湯の花の産地としても有名で、安永8年(1779)に三右衛門と呼ばれる人物が湯滝の湯溝に堆積する沈殿物を採集し江戸で売り捌いた事で広く知られるようになり、寛政4年(1792)には採集権が定められ、それに応じて幕府に冥加永(税金)が納められました。明治20年(1887)に湯畑の木樋が設置され明治40年(1907)頃から湯の花が採れる事から湯畑と呼ばれるようになっています。
岡本太郎は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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