巴御前・伝説: 巴御前は「平家物語」や「源平闘諍録」、「源平盛衰記」など資料性の薄い軍記物と呼ばれる読み物にのみ登場する平安時代末期の女性武将で、平家物語では源義仲の便女(召使・従者)、源平闘諍録では樋口兼光(義仲四天王の一人、中原兼遠の次男。今井兼平の兄)の娘、源平盛衰記では中原兼遠(木曾義仲の乳母父)の娘として登場し、木曽義仲(木曽源氏頭領、源頼朝の従兄弟)の愛妾かつ有力武将として描かれている場合が多いです。
それによると、巴御前は戦う際は大力で強弓を引き一騎当千の働きをし、容姿は色白で髪が長く、大変美しい顔立ちをしていたそうです。幼少の頃から義仲と共に育ち、一緒になって武芸の稽古をつけていたとされ、寿永2年(1183)5月11日の倶利伽羅峠の戦いで大将に抜擢され獅子奮迅の働きをし、その後の横田河原の戦いでも大功を挙げています。
その働きぶりは木曾四天王に数えられた今井兼平、樋口兼光兄弟も驚く程だったとされ、最後となった元暦元年(1184)近江栗津の戦いでも多くの家臣が討ち取られる中、最後まで義仲の側を離れず守り抜いたとされます。歴史的な資料が無い為、巴御前の最後も物語によってバラバラで、基本的には義仲の命により東国に落ち延びたとされますが、その後、和田義盛(鎌倉幕府の御家人で、初代侍所別当)の妻になったなどがあり、死没年齢も合致していません。
中原兼遠の本拠地だった木曽谷には巴御前の伝説が数多く伝えられており、その一つが長野県木曽郡木曽町日義にある巴ケ淵に住む龍神の生まれ変わりが巴御前とし、生涯木曽義仲の守護神として守り続けたとされます。巴ケ淵には巴御前が水浴びしたとも髪を洗ったとも、武術の修行したとの伝説が残され、近くにある徳音寺には木曽義仲と共に、巴御前の供養塔も建立されています。
草津温泉・伝説: 元暦元年(1184)1月、朝廷や源頼朝から追討された義仲は近江栗津の戦いで頼朝から派兵された源範頼、義経軍に敗れ自害する際、巴御前に逃延びるように命令したとされます。巴御前は数人の家臣と共に戦場を離脱し白根山麓の湯の池(草津温泉)まで辿り、傷ついた体と義仲を失った心の痛みを癒したと伝えられています。
巴御前は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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