朝日姫・概要: 朝日姫(幼名不詳)は一般的には豊臣秀吉の異父妹、異説では同父妹として天文12年(1543)に生まれました。父親と思われる竹阿弥は延宝4年(1676)に幕府の旗本土屋知貞によって編纂された「太閤素生記」では織田信秀の同朋衆(雑務や芸能を担った人)として描かれていた人物で、真偽は不詳ですが身分的には低い人物だったと思われます。
その為、朝日姫の初婚の相手と思われる佐治日向守も当時の木下家の身分に見合った人物(農民)だったと推測されます。それが、秀吉の出世に従い士分に取り立てられ、その際、名族である佐治氏の名跡を形式上継いだようです。その後、秀吉が長浜城(滋賀県長浜城)の城主だった時代(天正4年:1576年〜天正10年:1582年)に不祥事により切腹したとされますが詳しい理由は判らないそうです(諸説ありますが、その後も生存し朝日姫が徳川家康の輿入れに反対して切腹したという説もあります)。
天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が倒れると織田家の相続を巡り、大きく混乱が生じ、そのうような状況で豊臣秀吉と徳川家康の対立である小牧・長久手の戦いが天正12年(1584)に勃発、緒戦は徳川方が有利だったものの、体制を大きく崩すには至らず、結局半年間略膠着状態となり、家康が擁立した織田信雄が秀吉との講和に応じた事を受けて両軍自領に引き上げています。
その後、秀吉は徳川家の講和を模索し、その一環となったのが天正14年(1586)朝日姫の家康との輿入れで、その際、佐治日向守又は再婚相手とされる副田甚兵衛吉成を強制的に離縁させたとも云われています。当時の朝日姫の年齢は44歳、家康は48歳、正室だった築山殿を誅殺後は正室を設けていなかった事から、継室として徳川家に入る事となり絵に書いたような政略結婚の代名詞的な存在です。
しかし、家康は上洛を拒み続けた為、さらに秀吉は生母である大政所も徳川方に送り込みようやく家康の上洛が決まり和議が成立しています。天正16年(1588)、大政所の病気の見舞いを理由に上洛、その後は徳川方には帰らなかったとされ天正18年(1590)、聚楽第で病気の為息を引き取っています。
朝日姫が草津温泉(日本三名泉)を訪れたのは天正15年(1587)、秀吉の妹である事から大切にはされていたとは思われますが、政略結婚で敵中に四六時中監視されていた訳ですから、大変な精神的苦痛が伴っていたと思われます。
草津温泉の湯治にはそのような苦痛から少しでも開放出来ればという配慮からかも知れません。結局、草津温泉湯治から3年後には病死している事からも既に体調を崩していた事も考えられます。
朝日姫は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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