十返舎一九(日本三名泉:草津温泉)

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草津温泉・偉人・歴史・由来

十返舎一九・概要: 十返舎一九は明和2年(1765)、駿河国府中(現在の静岡県静岡市)で町奉行の同心の子供として生まれ、当初は武家に奉公などしていましたが、20歳前後の浪人となり浄瑠璃や香道を学び次第に作力をつけていきました。

寛政6年(1794)、30歳の時に江戸に入り、寛政7年(1795)には「心学時計草」などを出版、十返舎一九は版下と挿絵の両方に才があった事から版元から重宝がられ、浪人時代に培った芸事や雑学などが豊富だった事から話の種も尽きず、狂歌をはじめ様々なジャンルにも挑戦し多くの分野を取得していきました。

江戸時代中期頃になると民衆の識字率が急速に伸び始め、多くの本が出版され活字を求める時勢にのり、代表作である「東海道中膝栗毛」や「方言修行 金草鞋」をはじめ数々のヒット作を連発して、日本最初の職業作家(作家の収入だけで生活が成り立った。)とも言われています。

又、作品と同時並行して取材旅行も行い全国各地に歴訪し、その場所の歴史や文化、土産物などを作品中に登場させています。晩年は眼病を患い作家活動が出来ず生活に困窮したそうですが、大きな実績を残しています。、天保2年(1831)8月7日死没、享年67歳。菩提は浅草の東陽院に葬られました。

草津温泉の湯治伝説: 白根神社の境内に建立されている十返舎一九石碑によると「上州草津温泉道中 続膝栗毛十編下より 鬼の相撲場上毛の国草津は寔に海内無双の霊湯にして、湯宿の繁盛いふばかりなく、風流の貴客絶えず、弥次郎北八も、今日湯宿に著きて、壺ひと間を借りきり、云々 十返舎一九」とあります。十返舎一九は文政年間(1818〜1830年)に2度草津温泉(日本三名泉)を訪れ、1度目は文政2年(1819)に草津温泉と善光寺(長野県長野市)参りをして文政3年(1820)に「続膝栗毛十編(上州草津温泉道中含む)」を発刊し、同年、再び草津温泉を訪れ文政4年(1821)に「方言修行善光寺草津温泉道中金草鞋」を発刊しています。

文中には当時の草津温泉の繁盛振りや、「天狗山微雨の夜、山上に火を燃すことその数おびただし。鬼の角力場、土俵の形おのずから石ならびてその名となる」と表現された鬼の相撲場などの名所が随所に散りばめられています。又、現在でも草津温泉の中心とも言える湯畑に近い場所で営業を続けている和風旅館「望雲」で泊ったとされその時の様子も描かれています。

十返舎一九は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

草津温泉(日本三名泉):観光・見所
湯畑
草津温泉:湯畑
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光泉寺
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西の河原
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白旗の湯
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地蔵乃湯
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鬼の相撲場
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鬼の茶釜
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