源頼朝・概要: 源頼朝は河内源氏源義朝の3男として生まれましたが、義朝が平治の乱で藤原信頼方に与して敗北した事で捕縛され、命を落とさなかったものの伊豆国(静岡県)へ流刑となっています。流浪の間に北条時政の長女である政子と婚姻関係を結びなど周辺豪族と繋がりを強め、治承4年(1180)に以仁王(後白河法皇の第3皇子)が平氏追討の所謂「以仁王の令旨」を発すると、それに呼応します。頼朝は関東の源氏縁の豪族を集めますが石橋山の戦いで平家方に大敗し、伊豆国(静岡県)から安房国(千葉県)に脱出、そこで体制を整えると源氏縁の鎌倉に本拠を移し、平家の追討軍を富士川の戦いで大勝しています。
これにより全国に散らばった源氏一族が各地で挙兵、又は頼朝の異母弟源義経など頼朝の下に集まり平家打倒の体制が固まります。その後、一族である木曽義仲(源義仲)を制し、義経や範頼の活躍などで平家を滅ぼすと、征夷大将軍に任命され史上発の武家政権である鎌倉幕府を開府しています。
草津温泉の開湯伝説: 正式の歴史書である「吾妻鑑」によると建久4年(1193)8月、源頼朝は浅間山の山麓で巻き狩りを行っていた際、当地を訪れると偶然源泉を発見し入湯したことが記載されています(荒れ果てた源泉を改修し自ら入湯したとも)。その際、頼朝が腰掛けた石を「御座石」と呼ばれ、そこから湧き出す温泉は御座石に因み御座の湯(現在の白旗の湯)と呼ばれました。又、湯畑の近くから湧き出る源泉(白旗源泉)には天明3年(1783)に頼朝を祭る石祠(頼朝宮)が建立され草津町指定文化財に指定されています。上記のように一般的な草津温泉の由来には明確に「吾妻鑑」に源頼朝は浅間山の山麓で巻き狩りを行っていた際に草津温泉を見つけたと書いていますが、実際の「吾妻鑑」には富士の巻狩りの記載があるものの、浅間山の巻き狩りについての記載は無く、ましてや草津温泉の発見や、入湯したとの記述もないとされます。
中世、草津温泉の湯守だった湯本氏の由来によると、頼朝を当地まで案内した細野御殿助が湯本姓を与えられ湯守の役を仰せつかったとある事から、本来、素性不明の湯本氏が正当性を主張する為に画策したのかも知れません?。その後の湯本氏は草津温泉の湯守を行う一方で武田信玄や真田家に仕え、戦にも参戦し、多くの大名が草津温泉を訪れる際にも段取りや湯銭の管理等を行いました。
群馬県には源頼朝縁の温泉が多く、川原湯温泉(群馬県吾妻郡長野原町)や花敷温泉(群馬県吾妻郡中之条町)、沢渡温泉(群馬県吾妻郡中之条町)などが頼朝発見伝説を伝えています。源頼朝は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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