前田利家・概要: 前田利家は幼少の頃から織田信長の小姓として仕え、一時出奔した事もありましたが、再び信長の下に戻ると忠勤に励み、信長の意向もあり事実上実兄を排斥し前田家の家督を奪いました。その後は柴田勝家の与力大名として北陸地方に配され、織田家の北陸侵攻の一翼を担うようになると七尾城(石川県七尾市)23万石が与えられ大きく飛躍する事になります。
天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれ家臣同士の争いが激化すると、当初は勝家に従うものの、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いの最中に裏切り、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に与した事で秀吉の勝利に大きく貢献しています。利家はその功により加賀国の石川郡と河北郡が加増され新たに金沢城(石川県金沢市)を築き後の加賀藩百万石の基礎を固めます。
その後も秀吉の重臣として多くの戦に従軍し、慶長3年(1598)には有力大名によって構成された五大老に就任しています。秀吉が死去すると残された秀吉の後継者でまだ幼少だった豊臣秀頼の傳役(後見人)としてさらなる影響力が増しましたが、同時に豊臣家の家臣団が文治派と武断派に別れ対立し、徳川家康も天下を狙う為に暗躍した事で心休まる事も無く、秀吉の死後僅か8ヶ月で死去しています。
草津温泉の湯治: 前田利家が草津温泉(日本三名泉)に湯治に訪れたのは慶長3年(1598)の3月下旬、豊臣秀吉が催した京都醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴(3月15日)の直後の事で、よほど草津温泉が気に入ったようです。
本格的な湯治治療を行う為に一旦伏見に戻り、4月20日に家督を前田利長に譲り、形式上は隠居の身となり一族を引き連れて再度草津温泉で湯治を開始し約1ヶ月間滞在しています。利家は謡曲師や楽師なども引き連れ毎晩のように興と温泉を楽しんだとされ湯治の間も、佐野修理や堀秀政、徳川家康などから見舞いや差し入れがあり、大身の豪遊ぶりが窺えます。
ただし、草津温泉の効果よりもその後の心労の方が勝っていたようで、秀吉死後は豊臣秀頼の傳役(後見人)という事実上の豊臣家の最高責任者となりながら、秀吉の死後僅か8ヶ月後の慶長4年閏3月3日、享年62歳で死去しています。
前田利家は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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