小林一茶・概要: 小林一茶は宝暦13年(1763)に信濃柏原(長野県上水内郡信濃町柏原:北国街道柏原宿)で農家の長男として生まれ、早くに生母が死去し継母が迎え入れられた為、安永6年(1777)、14歳の時に江戸に立っています。青年になると俳諧を学び、30歳から36歳にかけては西日本を中心に俳諧修行の旅を行っています。
享和元年(1801)39歳の時に柏原に戻り、父親が死去すると遺産相続を巡り12年間争い、その間再び全国を歴訪を様々な句を残し江戸時代を代表する俳諧師となっています。文化9年(1812)に再び柏原に戻り、文化11年(1814)に「きく(28歳)」と結婚、4人の子供にも恵まれますが何れも早世し、きくも37歳で死去した為、その後、「田中雪」(離婚)と、「やを」と再婚し文政10年(1827)に死去しています。
草津温泉の湯治伝説: 小林一茶は草津温泉(日本三名泉)で湯宿を経営する黒岩鸞白と親交が深く、3度草津温泉に訪れたとされ、寛政3年(1791)と文化5年(1808)分が分かっています。特に寛政5年(1793)5月29日は、江戸から柏原に戻る途中に草津温泉を訪れ旧知の仲である望雲七代目黒岩忠右衛門との再開を果たし「湯けむりにふすぼりもせぬ月の貎」の句を残しています。黒岩忠右衛門は草津温泉を代表する俳人で寛政11年(1799)から雲嶺庵露白と号するようになり多くの句を残しています。
小林一茶は江戸から草津まで4泊5日の道中を「草津道の記」でまとめており、それによると5月25日に江戸を発ち、雑司ヶ谷(東京都豊島区)の鬼子母神に道中祈願し、板橋(東京都板橋区)、上練馬(東京都練馬区:旧上練馬村)を経て白子宿(東京都板橋区)で昼食、川越街道を下り大寺院である平林寺を横切っています。
5月26日には箭弓稲荷神社を参拝し、松山宿(埼玉県東松山市)で昼食、荒川は舟渡しを利用して久下村林屋勘六宅で休息をとり、深谷宿(埼玉県深谷市:中山道)で宿泊しています。5月27日は金讃神社を参拝して本荘宿(埼玉県本庄市:中山道)を経て新町宿(群馬県高崎市:中山道)の中島屋松五郎宅で宿泊しています。
5月28日には榛名神社を参拝し大戸宿(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸:草津街道)を経て、須賀尾宿(群馬県吾妻郡東吾妻町須賀尾:草津街道)の高橋屋に宿泊。そして5月29日に念願の草津温泉(群馬県吾妻郡草津町)に入り友人である望雲7代目雲嶺庵露白との再会を果たしています。
湯畑背後の高台に境内を構えている光泉寺には小林一茶の句碑(湯けむりにふすぼりもせぬ月の貎)が建立されています。望雲(温泉旅館)は湯畑のすぐ近くに店を構えている事から句の中の「湯けむり」は湯畑からの湯煙と事と思われます。
小林一茶は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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