日本三名泉: 草津街道

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草津(信州)街道

草津温泉(日本三名泉)・概要: 草津温泉(群馬県吾妻郡 草津町)は古くから名湯として知られ、草津街道の写真1室町時代の禅僧、歌人である万里集九が自著「梅花無尽蔵」で「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」と評し、江戸時代初期に徳川将軍家に仕えた儒学者である林羅山が有馬温泉(兵庫県神戸市)で製作した詩文集の中に「諸州多有温泉、其最著者、摂津之有馬、下野之草津、飛騨之湯島是三処也」の一文を残している事を理由として、草津温泉有馬温泉下呂温泉(岐阜県下呂市)日本三大名泉とされます。草津温泉の開湯伝説は諸説ありますが、真実性のある記録は室町時代以降で、特に戦国時代の諸大名の入湯が目立ちます。湯守だった湯本氏は国人領主として武田家配下の真田氏に仕え度々合戦にも出陣しているという特異な経歴を持ち、草津温泉と自らの出生を高く見せる為に開湯伝説を流布させたと思われます(湯本氏は木曽義仲の遺児で、源頼朝により湯守と周辺地域の所有権を認められたと伝えられています)。江戸時代以降は文化人の入湯が目立ち、小林一茶(江戸時代を代表する俳諧師)や十返舎一九(江戸時代後期の戯作者、浮世絵師)などが来訪し、庶民による温泉番付では東の最高位である大関(横綱は空位)に格付けられています。明治時代にドイツ人医師のベルツ博士が科学的に草津温泉の効能を論文で世界中に発表した事で日本を代表する保養地として発展し、多くの文人墨客達も訪れています。

草津街道: 当街道は中山道の高崎宿(群馬県高崎市)から分岐し、神山宿(高崎市上里見町)、草津街道の画像2室田宿(高崎市下室田町)、三ノ倉宿(高崎市倉渕町)、大戸宿(吾妻郡東吾妻町)、本宿(吾妻郡東吾妻町)、須賀尾宿(吾妻郡東吾妻町)、長野原宿(吾妻郡長野原町)と主要の宿場町を経由して草津温泉に至ります。高崎宿から須賀尾宿までは信州街道(信州道、善光寺道、大戸廻り、大戸通り)と同じ道筋で、須賀尾宿で分岐してからは草津街道や草津道と呼ばれました。特に信州街道は北信濃と江戸を最短距離で結び(北国街道から中山道追分宿を経て江戸に至る道筋に比べると約10里=約39キロ程短くなった)、難所が少くなく比較的交通に容易だった事から飯山藩(長野県飯山市)、須坂藩(長野県須坂市)、松代藩(長野県長野市松代町)の3藩での利用し、同区間の中山道よりも多くの旅人や物資の往来が多かったとされます。江戸時代中期以降になると一般民衆にも行楽思考が高まり、草津温泉の湯治や善光寺詣でを行う人々が急激に増え、さらには日本海の海産物が大消費地である江戸に向かいました。基本的には脇往還扱いだった為に参勤交代では利用されませんでしたが例外として慶応4年(1851)、須坂藩堀家が利用し神山宿で187人が投宿した事が記録されています。信州街道では大戸宿、狩宿、大笹宿の3箇所に関所を設け大戸、荻生、本宿からは関所番人役を担わせて人物改めや荷物改めなどが行われました。8代将軍徳川吉宗の命で草津温泉の湯畑から汲み上げられた源泉が江戸城(東京都)に運ばれた際には草津街道が利用され、小林一茶が江戸から草津温泉に行った際の道中が「草津道の記」という紀行文にまとめられています。

草津(信州)街道・宿場町

高崎城
右
神山宿
右
室田宿
右
三ノ倉宿
右
大戸宿
右
本宿
右
須賀尾宿
右
須賀尾峠
右
長野原宿
右
草津温泉
湯畑

その他の草津温泉(日本三名泉)への道

大笹街道: 福島宿−仁礼宿−鳥居峠−大笹宿−鎌原宿−狩宿宿−須賀尾−須賀尾峠−長野原宿−草津温泉(湯畑)
沓掛街道: 沓掛宿(中山道:長野県北佐久郡軽井沢町)−狩宿宿−須賀尾−須賀尾峠−長野原宿−草津温泉(湯畑)
草津街道: 新町宿(北国街道:長野市)−中野(中野市)−渋温泉(山ノ内町平穏)−渋峠−草津温泉(湯畑)
真田道: 沼田城下中山宿中之条町原町郷原−大戸宿−須賀尾−須賀尾峠−長野原宿−草津温泉(湯畑)
山田道: 小布施宿(長野県小布施町)−山田村−山田峠−草津温泉(湯畑)

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