日本三名泉

日本三名泉(枕草子):概要 日本三名泉とは平安時代に草津温泉の温泉街の俯瞰画像清少納言により執筆されたと伝わる枕草子に「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」と詠ったとされています。ここでいう「ななくりの湯」とは三重県津市榊原町にある榊原温泉説と長野県上田市にある別所温泉説があり榊原温泉が有利とされています。これは、ななくりの湯を詠った歌の中に「いちしなる・・・・」と地名を示す言葉があり、その「いちし」が伊勢国の一志郡を指すとされ、榊原温泉が旧一志郡に含まれています。又、榊原温泉は当時の都である奈良と伊勢神宮(三重県伊勢市)とを結ぶ街道沿いにあり地理的にも有利とされています。代わって別所温泉は歌学書で有利とされ平安時代後期に詠われた歌枕も信濃の地名が出てくる例が多く順徳天皇が著した歌論書である「八雲御抄」では「ななくりの湯」を信濃御湯(別所温泉)と同義であると説明しています。枕草子はその後の修正加筆が多い事から、原本に近いとしたら榊原温泉、平安時代後期以降に加筆されていたのであれば別所温泉といったところではないでしょうか。「有馬の湯」は兵庫県神戸市北区有馬町の有馬温泉に異論がなく、有馬温泉の温泉街の俯瞰画像「玉造の湯」は島根県松江市の玉造温泉と宮城県大崎市の鳴子温泉の説があります。一般的にはそのものずばりである玉造温泉が有力ですが、鳴子温泉のある旧地名が玉造郡だった事がその説を起因しています。松江市の玉造温泉は「出雲風土記」に記載され、近くには勾玉の生産地があり、その勾玉と朝廷が深い結び付きがあった事も大きな理由で、守護神である玉作湯神社には、温泉神の他、玉造りの神が祭られ平安時代に成立した延喜式神名帳にも記載されている格式のある神社です。一方、鳴子温泉は奈良時代に成立した「日本書紀」に記載され、当時の大和朝廷の蝦夷への最終防衛線は玉造柵で、全国から多くの兵士が招へいされ玉造軍団が結成された事などが歴史的な背景となり、やはり守護神の温泉神社は延喜式神名帳に記載され、河内玉造(玉沙)、出雲玉造(瑪瑙)、陸奥玉造(石英)が日本三玉造として朝廷に献上していたとされます。ただし、枕草子の日本三名泉は一般庶民に浸透せず、一般的に読まれている三巻本(枕草子に原本は現存せず、書写された三巻本・能因本・堺本・前田本があります。)では温泉の記述すらありません。

日本三名泉(林羅山・万里集九):概要 現在言われている日本三名泉草津温泉:湯畑は江戸時代、徳川将軍家に仕えた林羅山(儒学者)が、「諸州多有温泉、其最著者、摂津之有馬、下野之草津、飛騨之湯島是三処也」と自ら編纂した詩文集(林羅山詩集巻三 西南行日録)に記載した事が広がったとしています。簡単に略すと、日本には数多くの温泉があるが、その中で最も有名なのは摂津国(兵庫県)にある有馬温泉と下野国(群馬県)にある草津温泉、飛騨国(岐阜県)にある湯島温泉(下呂温泉)だと表現し、これが日本三名泉として浸透しました。林羅山は実際に上記の温泉を訪れた記録が無い事から自らの体験により日本三名泉を選定したのでは無く、室町時代の相国寺(京都五山の1つ)の僧である万里集九が編纂した「梅花無尽蔵」という詩文集に同じ3温泉を「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」と紹介している事から単に万里集九を追認したに過ぎないとも言われています。「梅花無尽蔵」は万里集九が旅や生活の中でまとめた詩文集で、鵜沼(岐阜県岐阜県各務原市鵜沼)や京都に住み、太田道灌との関係から江戸城にも住んでいた経験もあり、周辺から詳しい情報が得られ易い環境にあり、下呂温泉の温泉街の俯瞰画像草津温泉有馬温泉含めて日本三名泉全てに入湯した可能性も無い訳ではありません。実際、「梅花無尽蔵」の中では「予在飛之温泉、温泉所在日益田郡下櫓郷」と記載し日付などから少なくとも延徳元年(1489)と延徳3年(1491)の2度は下呂温泉には入湯している事は確実で(1度は美濃国鵜沼の春沢梅心翁と一緒に湯治を行っています)、下呂温泉(当時の日益田郡下櫓郷にある飛之温泉)は延喜年間(901〜923年)の始め頃に見つかり、霊験あらたかで湯治を行えば全ての病が完治すると評しています。

しかし、日本三名泉が一般庶民までどこまで浸透していたのかは疑問で、江戸時代に頻繁に作られた、温泉地を大相撲の番付に見立てて格付けした「諸国温泉功能鑑」では東の大関が草津温泉、西の大関が有馬温泉とあり、下呂温泉は前頭の中程に格付されている程度で、江戸時代中期の松尾芭蕉が提唱した「扶桑三名湯」も草津温泉と有馬温泉、そして芭蕉が愛した山中温泉(石川県加賀市)を挙げています(松尾芭蕉は温泉を題材とした作品が少ない中、奥の細道の道中で山中温泉に八泊九日と長期間滞在し「山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ」の句を残しています)。この事からも、少なくとも江戸時代の庶民の間には日本三名泉ではなく、草津温泉と有馬温泉が別格で、自分が好きな温泉を三番目に推したという事だと思います(諸国温泉功能鑑は地域地域でも発刊され、その地域で有名な温泉が関脇になっている例が目立ちます)。

日本三御湯・その他の名泉:概要: その他に日本の名泉と呼ばれるものは、鳴子温泉の温泉街の町並み画像鎌倉時代初期に順徳天皇選出の温泉場9湯の中に名取御湯(宮城県仙台市の秋保温泉)と信濃御湯(長野県上田市の別所温泉)、犬養御湯(長野県野沢温泉村の野沢温泉又は三函御湯:福島県いわき市のいわき湯本温泉)だけが湯の前に御の字が入れられた事から特に三御湯と称し名湯とされています。変わりどころとしては松尾芭蕉が扶桑三名湯として草津温泉、有馬温泉の他、山中温泉(石川県加賀市)を挙げたことで、扶桑とは日本の異称でもある為、日本三名湯とも読みとれます。江戸時代後期になると庶民の間にも温泉の関心が高まり、今で言う温泉番付である「諸国温泉功能鑑」が数多く発刊され最高位である東方大関には日本三名泉の草津温泉、西方大関にはやはり日本三名泉の有馬温泉がそれぞれ挙げられています。

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