いわき湯本温泉・温泉街

いわき湯本温泉の歴史は古く、平安時代中期に編纂された延喜式では道後温泉、有馬温泉と共に日本三古湯、鎌倉時代には信濃御湯名取御湯と共に日本三御湯に数えられました。産土神である温泉神社は 延喜式神名帳に記されている式内社で当時から開けていた地域だったと思われます。又、いわき湯本温泉は拾遺和歌集や未木和歌集にも「さはこのゆ」として詠われていて中央からも知られる存在でした。中世は岩城氏が支配していましたが親交のある佐竹氏や田村氏などの近郊の大名も温泉に湯治に訪れたと記録に残っています。延享4に湯本温泉が天領となると街道筋唯一の温泉宿駅として発展し最盛期には年間約2万人前後の浴客が訪れたそうです。いわき湯本温泉の共同浴場は「さはこの湯」、「東湯」、「上の湯」の3箇所で低料金で利用出来ます。特に美肌に効き目があるとされ月岡温泉(新潟県新発田市)と磐梯熱海温泉(福島県郡山市)と共に磐越三美人湯に数えられています。

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いわき湯本温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
全くの素朴な疑問ですが、日本三御湯を説明する文章に「犬養御湯又は三函の御湯」という表現をよく見かけます。三御湯の根拠は第84代天皇である順徳天皇が編纂した「八雲御抄」に9箇所の温泉が紹介され、その内の3箇所に「御」の字が前に付けられた事に因んでいるとされます。それならば、その3つ温泉名は明白なはずなのに、何故「又は」と付くのでしょうか?私が調べた限りでは「八雲御抄」の9箇所の温泉とは「あしがりのゆ」、「ななくりのゆ」、「ありまのいでゆ」、「しなののみゆ(ななくりと同所也)」、「いよのゆ」、「なすのゆ」、「なとりのみゆ」、「つかまのゆ」、「いぬかひのみゆ」なので、三函の湯は出てきていません。別の資料である藻鹽草(五水邊)には「伊豫温」、「有馬温」、「走温」、「那須温」、「犬飼御温」、「筑摩温」、「七久里温」、「蘆苅温」、「ましらこの浦の走温」、「かつまたのみ温」、「まくまのゝ温」、「御熊野温」、「さはこの御ゆ」、「名取御温」とあり三函の湯が登場します。足して考えると「犬飼御温(いぬかひのみゆ)」と「名取御温(なとりのみゆ)」が「御湯」としては両方に記載され「しなののみゆ(七久里温)」は「八雲御抄」では「御湯」、「藻鹽草」では単なる「湯」として表現され、「さはこの御ゆ」は「藻鹽草」のみという事になります。そうすると日本三御湯とは「犬養御湯、名取御湯、信濃御湯又は三函の御湯」と表現するのが正しいのかも知れません。

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