秋保温泉概要: 秋保温泉(宮城県仙台市)の開湯は不詳ですが、伝説によると湯神の化身と思われる小さな女の子が塩を積んだ牛と共に磊々峡に落ち為、村人が必死に探したものの女の子は見つからず、変わりに塩分を多量に含んだ霊泉を発見したと伝えられています。古くから名湯として広く知られており、欽明天皇の御代(531〜589年)に天皇が疱瘡に罹った際、当霊泉を都まで運ばせ入浴するとたちまち平癒し、「覚束な雲の上まで見てしかな鳥のみゆ(名取の御湯)けば跡はかもなし」の歌を詠いました。この故事から順徳天皇(1197〜1242年)によって編纂された八雲御抄には名湯として「あしかりのゆ」、「なヽくりのいでゆ=別所温泉」、「ありまのいでゆ=有馬温泉」、「しなのヽみゆ(なヽくり同所也=別所温泉)」、「いよのゆ=道後温泉」、「なすのゆ=那須温泉」、「なとりのみゆ=秋保温泉」、「つかまのゆ=浅間温泉」、「いぬかひのみゆ=野沢温泉」、以上の9つの温泉を上げ、中でも名取御湯(現在の秋保温泉)として信濃御湯(別所温泉)・犬養御湯(野沢温泉)(犬養ではなく三函湯(いわき湯本温泉)を挙げる人もいます。)は地名の後に「御」の字が入っている事から日本三御湯と呼ばれました。
又、平安時代後期に編纂された日本貴族を中心にした和歌による物語である「大和物語」や寛弘3年(1006)頃に編纂され古今和歌集・後撰和歌集に次ぐ歴史のあるの勅撰和歌集である「拾遺和歌集」にも「名取の御湯(秋保温泉)」の記述が見られます。「大和物語」では上記の欽明天皇の歌の他、「さて、名取の御湯といふことを、恒忠の君の妻よみたりけるといふなむ、この黒塚のあるじなりける」との記述があり、恒忠の君の妻の歌として「おほぞらの雲のかよひぢ見てしがなとりのみゆけばあとはかもなし」が記載されています。「拾遺和歌集」には欽明天皇の歌を模したと思われる平兼盛の歌「おほつかな くものかよひち みてしかな とりのみゆけは あとはかもなし」が収められています。
中世に入ると平家落人の平基盛の従者7人の1人佐藤家が秋保に土着し長く秋保温泉の湯守として維持管理を担い、江戸時代に入っても引き続き佐藤家が仙台藩主伊達家の信任を得ました。藩主や秋保近辺に遊興や視察に訪れると決まって佐藤家に宿泊し御殿湯とも呼ばれました。その後、岩沼屋、水戸屋が開業し江戸時代後期には5軒の湯宿があり温泉街を形成しましたが安政2年(1855)、東地方南部で発生したM6.9の地震によって被災すると源泉も枯渇、当時の湯守佐藤寿右エ門は湯殿山神社(山形県鶴岡市:出羽三山の奥之院)に参拝し湯神社の社殿を再建すると不思議と温泉が再び湧き出したとされます。秋保温泉は鳴子温泉(宮城県大崎市)、飯坂温泉(福島県福島市)と共に奥州三名湯に数えられ、仙台の奥座敷として多くの観光客が訪れています。
秋保温泉の泉質: ナトリウム・カルシウム−塩化物泉低張性中性高温泉
秋保温泉の効能: 婦人病・胃腸・皮膚病・神経痛リュウマチなど
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