玉造温泉(島根県松江市)・概要: 玉造温泉の開湯は不詳ですが伝承によると少彦名命が発見し、大名持命(大国主命)が温泉の効能を説いたのが始まりと伝えられています。温泉街を見下ろす高台からは数多くの勾玉や管玉が発見されている事から、当地が奈良時代から平安時代にかけて、勾玉や管玉の一大生産地として発展していた事が窺え、玉造温泉も生産者達が開発し利用していたのかも知れません。近くには記加羅志神社跡古墳や徳連場古墳などの古墳が点在し、生産者の責任者などが埋葬されたと推定されています。遺跡一帯は「出雲玉作跡」として国指定史跡、発掘された遺物は国指定重要文化財に指定されています。
天平5年(733)に編纂された出雲国風土記の忌部神戸の条に記載された「川辺の出湯」とされ、それによると神湯と呼ばれ、年齢性別関係なく市場のように数多くの人達が集まり、一度入浴すると美男美女になり、再度入浴すれば万病に効くと記されています。玉造温泉の守護神である玉作湯神社も同じ出雲国風土記に玉作湯社の記載があり、少なくとも奈良時代には成立し、その後も平安時代に編纂された日本三代実録や延喜式神名帳にも名を連ねている事から当時から格式の高い神社だった事が窺えます。又、祭神には温泉神である大名持命(大国主命)と少彦名命と共に、玉造りの祖神とされる櫛明玉命が祭られている事も興味深い所です。
平安時代中期に清少納言により執筆された能因本「枕草子」第117段に「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」とうたわれ、七栗の湯(現在の榊原温泉:三重県津市又は別所温泉:長野県上田市)、 有馬の湯(現在の有馬温泉:兵庫県神戸市)、玉造の湯(現在の玉造温泉:島根県松江市)が日本三名泉とされています。ただし、枕草子の原文は存在せず、鎌倉時代以降書写されたものが現存するのみで、多くは誤植や加筆が加えられ、枕草子(三巻本)には日本三名泉の記述すらありません。
玉造温泉はその後、玉作川の氾濫により一時廃れましたが鎌倉時代末期に再び開発されました。玉造温泉に建立されている湯薬師の由来によると、延慶2年(1309)、富士名判官義綱が重い病にかかり床に臥っていたところ、その家臣綱久が普段から信仰している薬師如来に病気平癒の祈願をしました。すると夢枕に薬師如来の化身である白髪の老人が立ち、「今は洪水で埋まっているが、玉作川の川床に霊泉の湧き出る場所がある。この霊泉を浴びればたちまち病が癒えるだろう。」と告げた事を受け、綱久は早速玉作川の川床を掘り探すと、1体の薬師如来像が見つかり、そこから霊泉が湧き出したそうです。江戸時代に入ると松江藩の藩庁が置かれた松江城(島根県松江市)から比較的近く、名湯として知られた玉湯温泉が藩の湯治場とされ、この場所に藩主専用の御茶屋が設けられました。温泉街の外れに境内を構える報恩寺は松江城から見ると南西の方角にあたる為、松江城の裏鬼門鎮護として帰依され、境内には松江藩2代藩主堀尾忠氏の墓碑が建立されています。松江藩では「湯之介」を任命し、湯之介が玉湯温泉の管理運営を行い明治維新まで大きな影響力を持ちました。玉湯温泉の泉質は硫酸塩−塩化物泉 源泉温度42度以上。
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