那須温泉概要: 那須温泉は何時頃から開かれたのかは判りませんが 次のような伝承が伝えられています。舒明天皇(第34代天皇・在位:西暦629〜641年)の御代に、狩野三郎行広と名乗る若者が、村々で大暴れをして大きな被害を与えていた大鹿を追って当地まで入り込みました。しかし、余りにも山深かった事から道に迷い困っていると、仙人が出現し大鹿が温泉に浸かっている事とその場所を告げました。行広は御告げに従いさらに山中に分け入ると、大鹿を発見し、念願だった大鹿を射る事に成功しました。村人達は大変喜び仙人を温泉神として社を設け温泉場を整備したと伝えられています。記録的には奈良時代の天平10年(738)に編纂された「駿河国正税帳」によると病になった小野朝臣(従四位下)が家臣12名を引き連れて「那須の湯」に向う為に駿河国(静岡県)を通過したとの記載があり、奈良時代には既に病に利く名湯として朝廷にも知られた存在で、平安時代中期に清少納言により編纂された「枕草子」能因系本の387段には「出で湯は、ななくりの湯、有馬の湯、那須の湯、つかさの湯、ともの湯」との記載があり、清少納言が知る五指に入る名湯だった事が窺えます。守護神である温泉神は格式の高い神としても認識され「日本三代実録」には貞観11年(864)には従四位勲五等に列し、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載されていました。特に延喜式神名帳には温泉名の入った神社は全国で10社しか無く格式の高さが窺えます。
那須湯本温泉の温泉街の最奥地には「殺生石」と称する巨石があり、 あたり一面は硫黄臭が立ち込め地獄を思わせる景観が広がっています。伝承によると玉藻前と名乗る絶世の美女が、平安時代後期の朝廷内部の最高権力者鳥羽上皇に取り入り、日本を乗っ取る悪事を計画します。玉藻前の行動に異変を感じた陰陽師阿部泰成が策を講じると、玉藻前の実態は九尾の妖狐で、古くは中国や印度で悪行を繰り返していた事が判明します。泰成の活躍により何とか宮中から追い出したものの、九尾の妖狐は那須温泉付近に巣食い、近隣住民に対して悪行の限りを尽くしました。当時の領主須藤権守貞信も応戦しましたが、想像絶する霊力により太刀打ち出来ず、堪らず朝廷に援軍を要請しました。朝廷はこれに応じて陰陽師阿部泰成を筆頭に三浦介、上総介両将軍に8万の軍勢を与え九尾の妖狐討伐軍を那須温泉に向けて派兵しました。朝廷軍は狐に強いとされる犬との共同訓練が行われ、貞信は神仏に帰依した事で、必ず命中し、絶対に抜けない神矢を得る事が出来、決戦に臨みました。大軍と苦手である犬に追い詰められた九尾の妖狐は最後に貞信の放った神矢により、大きな巨大の岩に姿になり絶命しました。しかし、時代が下がると、その巨岩から毒素が噴出し、それを浴びた住民が悉く死去した事から「殺生石」と呼ばれるようになり再び忌み嫌われるようになります。その話を聞いた名僧源翁和尚が法力により「殺生石」を鎮めると、「殺生石」は3つに分かれ、美作国高田(岡山県真庭市勝山)、越後国高田(新潟県上越市)、安芸国高田(広島県安芸高田市)、又は、豊後国高田(大分県豊後高田市)に飛び散ったと伝えられています。
那須温泉神社は周辺の領主からも信仰の対象となり、 源平合戦の1つ屋島の合戦の一幕で平家方が扇の的を掲げた軍船を源氏方の陣の沖合い約40間(約70m)に停泊し挑発した際、当地の土豪で弓の名手である那須与一が「南無八幡大菩薩、別にしては我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉大明神、願わくば、あの扇の真ん中射させてたばせ給え」と念じ見事扇の的を射抜いたとされます。この功績は源氏方の士気を高め勝利に導いたとされ、平家滅亡後は丹後国五賀荘・若狭国東宮荘・武蔵国太田荘・信濃国角豆荘・備中国後月郡荏原荘の領地を賜りま那須家発展の基礎を築きました。鎌倉時代の建久4年(1193)には鎌倉幕府初代将軍源頼朝が那須野で狩を行った後に那須温泉で汗を流し、文永2年(1265)には日蓮宗の開祖日蓮上人が湯治に訪れ大刀傷(房州小松原で東条右衛門影信から眉間三寸の傷を負った)を癒したとされます。
江戸時代に入ると黒羽藩(栃木県大田原市前田:本城−黒羽城)から管理を受け、 文政年間(1816〜1830年)に藩主である大関家の姫君が大病を患った為、温泉街の一角にあった「日蓮上人御題目岩」に祈願したところ、見事病気が平癒した事から喰初寺を創建しています。元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥の細道の行脚の際、那須温泉神社の参拝と、殺生石の見学に訪れ「湯をむすぶ 誓いも同じ 石清水」と「石の香や 夏草赤く 露あつし」の句を残しています。江戸時代中期以降になると一般庶民にも行楽嗜好が高まり、那須温泉にも多くの湯治客が訪れるようになり、次第に湯屋や宿所が設けられ温泉街が形成され、安政5年(1858)の山津波で大破し、現在地に温泉街を再興した際には28軒の湯宿が営業していたとの記録が残されています。名湯との名声も全国に広がり江戸時代後期の文化14年(1817)に編纂された温泉番付(諸国温泉効能鑑)では「野州那須の湯」として東日本の温泉街の中では大関である草津温泉(日本三名泉)に次ぐ関脇に格付けされ、人気の高い温泉だった事が窺えます。
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