有馬温泉・歴史概要: 有馬温泉(兵庫県神戸市)の発見の由来(歴史)は神話の時代、大已貴命と少彦名命が当地を訪れた際、3羽のカラスが湯浴びをし傷を癒しているのを見つけたのが始まりと伝えられています。古くから朝廷にも知られた存在で日本書紀によると舒明天皇3年(631)には舒明天皇が大化3年(647)には孝徳天皇がそれぞれ有馬温泉に湯治を訪れています。その後、有馬温泉が人々の記憶から薄れた頃、行基菩薩の前に薬師如来の化身が現れ、大病を患っているので有馬温泉に連れて行って欲しいと懇願されます。行基が有馬温泉に辿り付くと、薬師如来の化身は温泉の再興を行基に託し姿を消したそうです。行基は薬師如来像を彫り込むと温泉寺を開山、有馬温泉の開発に尽力し次第に賑わいを取り戻しました。平安時代に入ると有馬温泉の名声は広がり清少納言が記した能因本「枕草子」第117段に「湯はななくりの湯、有馬の湯、玉造の湯」とうたわれ、七栗の湯(榊原温泉:三重県津市、又は別所温泉:長野県上田市)、有馬の湯(有馬温泉:兵庫県神戸市)、玉造の湯(玉造温泉:島根県松江市、又は鳴子温泉:宮城県大崎市鳴子町)を日本三名泉と紹介しています。
承徳元年(1097)、大洪水により有馬温泉が壊滅的な被害を受け以後衰退しましたが、平安時代末期、高原寺の僧仁西の霊夢に熊野権現の化身が立ち御告げにより蜘蛛に導かれ荒果てた有馬温泉にやってきました。すると1人の老人が出現し、この地から霊泉が湧き出る事を告げ姿を消しました。仁西は村人を集め、地面を掘り進め源泉を発見すると、有馬温泉の開発に尽力し、荒れ果てた温泉寺や湯泉神社などの社寺も再興させました。その後も日本を代表する名泉として順徳天皇(1197〜1242年)によって編纂された八雲御抄で採り上げた9温泉(「あしかりのゆ」、「なヽくりのいでゆ=別所温泉」、「ありまのいでゆ=有馬温泉」、「しなのヽみゆ(なヽくり同所也=別所温泉)」、「いよのゆ=道後温泉」、「なすのゆ=那須温泉」、「なとりのみゆ=秋保温泉」、「つかまのゆ=浅間温泉」、「いぬかひのみゆ=野沢温泉」)や藻鹽草(五水邊)で採り上げた14温泉(「伊豫温」、「有馬温」、「走温」、「那須温」、「犬飼御温」、「筑摩温」、「七久里温」、「蘆苅温」、「ましらこの浦の走温」、「かつまたのみ温」、「まくまのゝ温」、「御熊野温」、「さはこの御ゆ」、「名取御温」)にも選定の対象となっています。
戦国時代に入ると兵火により一時荒廃しますが、豊臣秀吉、正室である北の政所(ねね)が事の他、有馬温泉を気に入り、新たな泉源の開発や社寺の再興、温泉街の整備などを行い、自らも湯治に何度も訪れています。江戸時代には儒学者・林羅山が有馬温泉、草津温泉(群馬県草津町)、下呂温泉(岐阜県下呂市)を日本三名泉として詩文に残し、松尾芭蕉は山中温泉(石川県加賀市)、草津温泉、有馬温泉を扶桑三名湯として讃えました。江戸時代後期になり庶民の行楽が盛んになると数多くの湯治客が訪れるようになり、温泉番付である諸国温泉功能鑑では常に西方(西日本)の大関(横綱が無い為に最高位)に格付けされていました。
有馬温泉の泉質−金泉(含鉄ナトリウム塩化物強塩高温泉)
−銀泉(放射能泉:ラドン泉)
−銀泉(炭酸泉:二酸化炭素泉)
有馬温泉の効能−金泉:切り傷、火傷、皮膚病、胃腸病など
−銀泉:高血圧症、末梢動脈閉塞性疾患など
−銀泉:神経痛、筋肉痛、婦人病、リウマチなど
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