山中温泉・温泉街

山中温泉(石川県加賀市)の歴史は古く天平年間、奈良時代の名僧行基が当地で、1人の老僧から万病に効く温泉の湧き出る位置を教えられたと伝えられています。平安時代末期の争乱により温泉地は衰退しましたが、鎌倉時代初期に源頼朝の命により長谷部信連が周辺地域の地頭として着任し、視察していた際、白鷺が傷を癒す為に湯浴びをしていました。すると女性に姿を変えた薬師如来が出現し山中温泉の復興を懇願した為、信連は復興を約束しました。その後、山中温泉の効能の高さが広がり多くの地域から湯治客が訪れるようになり、文明5年には蓮如上人も訪れ戦国時代には柴田勝家(織田信長の家臣で北陸地方の司令官として福井城の前身である北ノ庄城を本拠としました。山中温泉は一向一揆の掃討戦の戦火を受け荒廃した為、北陸地方の整備の一環として温泉街を整備したと思われます。)が山中温泉の保護の命令を出しています。元禄2年には松尾芭蕉も奥の細道行脚の際、山中温泉の温泉街に9泊8日の長滞在をし「山中や 菊は手折らじ 湯のにほひ」の句を残し草津温泉有馬温泉と共に「扶桑三名湯」と讃えています。

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山中温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
松尾芭蕉は温泉嫌いとされますが、私は専門家ではありませんでの芭蕉が自ら温泉嫌いを言及したのかは判りません。そこで、奥の細道の行程で芭蕉が温泉地を付近を通過したものを挙げ、実際に入湯したかどうか、句を残したかどうかをまとめてみました。

月日
温泉名
入湯の有無
発句の有無
元禄2年(1689)4月19日湯本温泉(現在の那須温泉)
元禄2年(1689)5月2日飯坂温泉(印象は良くなかった)
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元禄2年(1689)5月15日鳴子温泉
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元禄2年(1689)5月17日赤倉温泉
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元禄2年(1689)5月18日〜銀山温泉
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元禄2年(1689)6月26日温海(あつみ)温泉(曽良だけ入湯)
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元禄2年(1689)7月3日弥彦温泉(開湯年代が不詳)
元禄2年(1689)7月27日山中温泉

まとめて見て見ると少なくとも積極的に温泉に入った形跡は無く、山中温泉がかなり異例の出来事だった事がわかります。

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