赤倉温泉・温泉街

赤倉温泉(最上町)の歴史は古く、貞観5年(863)、平安時代の高僧として知られる慈覚大師円仁(天台宗第3座主)が達谷窟毘沙門堂(岩手県西磐井郡平泉町平泉)から出羽国に抜ける際、傷ついた馬が湯浴びをしているのを見て温泉の存在を確認したとも、川縁を掘って源泉を発見したとも云われています。別の説では安倍貞任(俘囚長一族)の後裔とされる阿部与五右エ門が温泉場を設けたのが始まりとも云われています。又、別の説では最明寺時頼(北条時頼・第5代執権)が行脚で翁山霊場に訪れた時に偶然発見したとも云われています。その後、翁山修験が盛んになると修験者や、参拝者、最上三十三観音霊場である富沢観音の参拝者などが数多く利用し次第に温泉街として形成され、寛永年間(1624〜1645年)には赤倉に6軒、明神に12軒の宿屋がありました。元禄2年(1689)には松尾芭蕉の奥の細道の際には赤倉温泉を通り山刀伐峠(標高:390m、現在の山形県最上町と尾花沢市の境にある峠、芭蕉が通った時代は難所だったとされ、昼間でも薄暗く山賊が出没したそうです。)を通り尾花沢に抜けていきました(入湯したかは不詳)。

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赤倉温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
赤倉温泉は翁山の修験者や参拝者が数多く利用し賑わったと伝えられるそうですが、翁山(標高:1075.0m)の信仰については余り知られていないようです。伝承によると京都出身の曽我明監が当地に流れ着き生活していたところ、1匹の白鹿が出現し明監を翁山の山頂まで誘いました。山頂には古びれた一庵があり中には春日大明神の使いを語る白髪の老人が座り、春日信仰の真髄と、翁山の霊地である事の理由、既に八万八千の神仏を祭った事を告げて姿を消しました。曽我明監は感銘を受けると、翁山信仰を周辺に流布し、信仰が広がると別当寺院である明光寺や明監寺が開かれ門前町には400軒とも云われる宿坊が軒を連ね、赤倉温泉に流れ着く川は白米を研いだ、研ぎ汁で白く染まったとも云われています。さらに西側の「出羽三山」に対して周辺の戸沢山、大穴山と共に「東の三山」を形成し大きく繁栄しましたが、鎌倉時代に入ると、修験僧達は横暴な態度をとり住民に対して軋轢が生じると、偶々巡錫で訪れた最明寺時頼(北条時頼・第5代執権)により粛清され次第に衰微したそうです。その後、翁山に境内を構えていた社寺群が幕府の許可を得ていない事などから全山閉山になったとも、正嘉2年(1258)に全山焼き払われたとも云われています。

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