銀山温泉・温泉街

銀山温泉(尾花沢市)の歴史は江戸時代初期の寛永年間(1624〜1643年)に、石見銀山(島根県大田市)、生野銀山(兵庫県朝来市)、半田銀山(福島県国見町)、院内銀山(秋田県湯沢市)と共に日本三大銀山にも数えられる延沢銀山(国指定史跡)の工夫が作業中に発見したのが始まりとされます。延沢銀山は江戸時代中期になると年々産出量も激減し、元禄15年(1703)に村請負になり事実上閉山となりましたが、その後は銀山川の川沿いには宿屋などが建ち並ぶようになり、湯治場として知名度が広がると、温泉の功能で番付を行う「諸国温泉功能鑑」にも銀山温泉(最上銀山の湯)の名を連ねるようになっています。大正2年(1913)の銀山川の氾濫により多くの建物が流される大惨事が起こりましたが、この惨事の結果、温泉旅館や温泉宿の建物が同時期に建て替えられることになり、同じような形式を持つ3〜4階建て木造旅館による温泉街が形成されました。銀山温泉は、昭和61年(1986)に「銀山温泉家並保存条例」を制定され温泉街の特徴の1つである良好な町並みや風情ある旅館を保存しまちづくりに生かす事が積極的に展開されています。

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銀山温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
銀山温泉は延沢銀山の工夫が偶然に発見し、大正時代から昭和初期に建てられた木造高層温泉旅館が温泉街を形成する全国的にも極めて稀な温泉として知られています。全国的に知られるようになったのはNHK連続テレビ小説第31作「おしん」の舞台になった事がきっかけとも言われ、その後も外国人女将や多くの旅番組などでも紹介され現在でも多くの観光客や湯治客が訪れるようになりました。銀山温泉の上流に位置する延沢銀山が本格的に開発されたのは戦国時代で最上家に従った国人領主延沢氏が主導して山師5人が採掘に従事したとされ、慶長3年(1598)には最上家をかいして豊臣秀吉に金銀が上納されとされます。元和8年(1622)に最上家が御家騒動により改易になると、延沢氏もこの地を離れることになり、変わって新庄藩(山形県新庄市:本城−新庄城)には戸沢政盛、山形藩(山形県山形市:本城−山形城)には鳥居忠政が入封します。ここで問題なのは銀山温泉や延沢銀山がある一帯は本来新庄藩領だったのですが、藩が成立すると暗黙の了解か強引かは分かりませんが山形藩領として同じ石高分で領地変換が成され、これには大きな力関係が存在しています。戸沢氏は元々は現在の秋田県仙北市角館町の角館城を拠点にして4万5千石を領していましたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍として行動したものの、相当怪しい行動をしていたと最上家から幕府に上申され結果的に常陸松岡藩(現在の茨城県高萩市下手綱)に4万石に厳封され、同じく隣接する秋田氏(安東氏)も同様に東軍に与したものの結果的に厳封されています。これは最上家が出羽国の諸将を一気に改易に追い込むあわよくば出羽国一国支配を狙ったとも考えられますが、現在の秋田県を支配していた大名は積極的な行動を取らず、目立った功績も挙げれず政治力にも欠けていた点があり一掃される結果となりました。これらの反省を踏まえた戸沢家は徳川家の重臣である鳥居家に近づき、婚姻関係を深める事で一族扱いを受け、鳥居家の山形藩移封に伴い、新庄藩6万石と1.5倍の加増を受け栄転となったのです。その事から本来新庄藩の財政を支えるべく延沢銀山や最上川舟運の最大の拠点だった大石田湊(河岸)が鳥居家が支配する山形藩領の同じ石高の領地と交換に応じざるを得ない状況だったのです。

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