飯坂温泉・温泉街

飯坂温泉の歴史は古く、日本書紀や古事記に英雄的な存在として描かれている日本武尊が東国を平定する為に当地に着陣した際、重い病にかかり"佐波子湯"に湯浴びした所、不思議と元気になったと伝えられています。歴史的明確なものとしては、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての歌人として知られる西行法師が「あかずして わかれし人のすむさとは さばこのみゆる 山のあなたか」と詠んだことから少なくとも、それ以前から「さばこ」と呼ばれていたと思われます。飯坂温泉は歴代領主からも利用され、鎌倉時代初期は佐藤基治は「湯の庄司」と称され、中世以降は伊達氏の一族である飯坂氏が支配していました。元禄2年には奥之細道の道中で松尾芭蕉が飯坂温泉に訪れ、当時の飯坂温泉の様子が門人で随伴者だった河合曾良の日記に記載されていて当時は鯖湖湯など温泉宿が4軒、人口326人、戸数74戸と比較的小さな温泉街だったそうです。その後は紀行文などで飯坂温泉を紹介された事で広く知られる事になり一般庶民にも行楽嗜好が高まった事で多くの湯治者が訪れるようになり鳴子温泉秋保温泉と共に奥州三名湯と呼ばれるようになりました。又、江戸時代後期に発刊された日本全国の温泉の功能の番付表である諸国温泉功能鑑には前頭に「陸奥飯坂の湯」として格付けされています。現在の飯坂温泉の温泉街は摺上川の両側を大型のホテルや旅館が建ち並び独特な町並みが続く温泉歓楽街になっています。
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飯坂温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
飯坂温泉には藤太湯伝説が伝わっています。それによると平安時代、俵藤太(藤原秀郷)が当地を訪れると大蛇が横たわり赤川の橋の代わりを果たしていました。住民は恐れをなし渡る人は1人もいませんでしたが、藤太は颯爽と大蛇を渡り切りました。すると大蛇は美しい女性に姿を変え「私の住処だった子守沢に大百足が現れ、私は命からがらこの地まで逃げてきましたが子供は全て食べられてしまいました。私は悔しくて悔しく、何とか子供の仇を討てる人を探している最中です。お侍様、どうか、大百足を退治してください。」と懇願しました。藤太は快く引き受けると、大百足を倒せる唯一の武器である「三本の矢」を女性から授かりました。藤太は大百足の棲家に赴くと、激闘が始まり、数日間にわたり戦いが繰り広げられ、3本の矢も残り1本になりました。最後の1本を放つ瞬間、藤太は「南無八幡大菩薩」と八幡神に祈願すると、八幡神の遣いと思われる天狗が出現し、大百足の弱点は目玉であるとの御告げがあり、急遽、目玉に狙いを変更し矢を放ちました。目を射抜かれた大百足は猛烈に苦しみ出し、辺りを転がり雷鳴も轟きましたが、遂に息絶え平和が訪れました。大蛇の化身である女性は御礼がしたく藤太を探しましたが、既に姿は無く、住民に聞くと藤太は佐波来湯の北隣りの泉で身を清めで何処かに言ったとの事、女性は急いで探しに行くと、その泉からも温泉が湧き出していたと伝えられています。
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