温海(あつみ)温泉・温泉街

温海(あつみ)温泉(山形県鶴岡市)は歴史の長い温泉街です。何時頃から開かれたのかは多くの説があり、

1つは白鳳元年(672)に飛鳥時代から奈良時代の呪術者で修験道の開祖とされている役行者が温海嶽(標高:735.6m・古くから山岳信仰の山として崇拝され、山頂には温海(あつみ)温泉の産土神である熊野神社の奥之院が建立しています。)に由豆左売神(温泉神で、湯田川温泉にも同神が祭られています。)を勧請した時に見つけたと云われています。

1つは、大同2年(807)に樵が傷ついた鶴が温泉で湯浴びをし、傷を癒している姿を見つけたのが始まりとされます。

1つは嘉祥2年(849)にの大地震で地面が割れ温泉が湧き出たと云われています。平安時代に成立した「日本文徳天皇実録」と呼ばれる歴史書によると、嘉祥3年(850)11月27日に出羽国で大地震が発生し出羽国府(山形県酒田市の城輪柵と推定されます)の城柵が崩壊し、多くの人が建物に潰され圧死し、大津波により最上川の岸が崩壊し、そこから海水が流れ込んで出羽国府まで6里(当時の3キロ)まで迫った事が記載されている事から、温海(あつみ)温泉の由来とは1年差があるものの、この大地震の事を指していると思われます。

1つは弘法大師空海が巡錫で当地を訪れた際に見つけたと云われています。

温海(あつみ)温泉は古くから湯田川温泉(山形県鶴岡市湯田川)、湯野浜温泉(山形県鶴岡市湯野浜)と共に庄内三名湯の1つとされ、国人領主として長く当地を支配した武藤氏(大宝寺氏)や歴代庄内藩(山形県鶴岡市:本城−鶴ヶ岡城)の藩主酒井家などから利用され、特に庄内藩では湯役所を設けて温泉街を整備しました。元禄2年(1689)奥の細道行脚の際には松尾芭蕉の門弟曾良が温海温泉に立ち寄り、明治時代以降は与謝野晶子、横光利一、斎藤茂吉などの文人墨客も湯治に訪れています。昭和26年(1951)の火災により古い温泉街はは失われましたが、現在でも温泉街には木造の温泉旅館も多く当時の雰囲気も僅かに感じられます。温海温泉の名称の由来は温泉水が日本海にまで達し海水が温かく感じたからとも言われています。

スポンサーサイト
  日本三名泉(ホーム)全国・温泉街・町並み・探訪>温海(あつみ)温泉
温海(あつみ)温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
松尾芭蕉の奥の細道は、随行した弟子の曽良によって記載された日記によってより細かな行程が分かるようになりました。そこで、温海(あつみ)温泉が意外な形で注視されています。元禄2年(1689)6月25日に芭蕉と曽良の2人は羽州浜街道の温海宿の鈴木所左衛門宅で宿泊、翌日の6月26日に温海を出立するのですが、奥の細道の道中で何時も2人で同じ経路を進む中、唯一別々の経路を採っています。日記では「温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ関被趣。予ハ湯本ヘ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日モ折々小雨ス。及レ暮中村ニ宿ス。」とあり、訳すと芭蕉は古代から奥州三古関(勿来関・白河関・鼠ヶ関)として知られた鼠ヶ関に向かい、曽良は湯本(温海温泉)に立ち寄り、物見見物をして小雨が降る中約2キロの山道を進み出羽街道の中村宿で宿泊したとなります。たいした理由では無いのかも知れませんし、重大な理由があるかも知れません、一般的には手形等の不備があり曽良は鼠ヶ関の関所が通過出来ない状況で、芭蕉は「義経記」上は義経が上陸地のある鼠ヶ関の見学を優先したとも考えられますが、事実は新発見があるまでは推測の域を出ません。
スポンサーサイト
※ 回答はあくまでも当サイトの考えであって1つの参考意見でなので御自身の責任でご判断下さい。予告なしに追加、書き替えを行いますのでご了承ください。 尚、リンクは自由ですが画像(写真)や文章等の利用は遠慮させていただいております。御理解の程よろしくお願いします。