豊臣秀吉・概要: 豊臣秀吉の出生には諸説ありますが、一般的には尾張国愛知郡中村郷出身の比較的に身分が低い家で生まれたとされます(父親は足軽説や農民説、下層民説など)。その後、今川家に仕えた後に織田信長に仕え、多くの戦功を重ね、織田五大将(柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀・羽柴秀吉)に数えられました。天正10年(1582)の本能寺の変により主である織田信長が明智光秀に討たれると、秀吉は対峙していた毛利氏と和睦を結び、所謂「中国大返し」により大軍を率いて「山崎の戦い」で光秀を破り織田家において有利な立場を確保しました。その後に行われた織田家家督相続を決定させる「清須会議」により織田信忠(信長の長男)の長男・三法師を擁立するのに成功しすると、敵対する織田一族(織田信雄・信孝)や旧織田家家臣(柴田勝家:賤ヶ岳の戦い・佐々成政:越中攻め)を一掃しました。その後は、上杉景勝や徳川家康(小牧・長久手の戦い)などを従属させ、九州征伐(島津家)と小田原の陣(北条家)、奥州仕置(伊達家など奥州の大名)を経て天下を統一しました。
有馬温泉(日本三名泉)と豊臣秀吉: 正式な記録によると、豊臣秀吉は天正10年(1582)に荒廃した有馬温泉に再興してからは生涯9度湯治に訪れており、非常に結び付きが強かったとされます。秀吉にとって大きな節目毎に慰労を兼ねた盛大な湯治が何度も行われ、特に天正13年(1585)に四国征伐と越中攻めにより、長宗我部元親と佐々成政を下すと、北ノ政所(秀吉の正室:ねね)をはじめ、石田三成、大谷吉継、増田長盛などの重臣も引き連れ慰労の湯治が行われ、天下統一が成った天正18年(1590)の湯治では蘭若院阿弥陀堂で千利休や津田宗及など茶人や小早川隆景、有馬法印などの家臣達を引き連れ大茶会を開いており、参加できなかった諸大名や、有力寺院などから数多くの差し入れや見舞いが送られています。慶長元年(1596)の慶長伏見大地震で温泉街や秀吉の別荘である湯山御殿が大破すると、すぐさま復興に乗りかかり1年半後には概ね完成し10度目の湯治を計画していましたが秀吉の体調不良により延期となり、死去した事で計画は果たされませんでした。これらの故事により豊臣秀吉は行基菩薩、仁西上人と共に有馬三恩人に数えられています。
有馬温泉の豊臣秀吉関係年表
天正7年(1579)3月10日−秀吉、有馬道(有馬街道)開削の為、有馬郡山口荘の住民を徴用。
天正7年(1579)4月5日−秀吉、湯山阿弥陀堂の寺領を安堵。
天正8年(1580)−三木城攻めが集結すると秀吉は有馬に2日間籠ったとされます(伝)。
天正10年(1582)−秀吉、有馬温泉の再興の為尽力。
天正11年(1583)8月17日〜27日−秀吉湯治。賤ヶ岳の戦いが終結し養生の為と思われます。
天正12年(1584)8月2日〜8日−秀吉湯治。小牧・長久手の戦いが終結し養生の為と思われます。
天正13年(1585)1月22日〜2月3日−秀吉湯治。
天正13年(1585)9月14日〜20日−秀吉、北政所や重臣たちを引き連れて湯治。越中攻め終結し養生と思われます。
天正13年(1585)−北政所が湯山阿弥陀堂に薬師寺再建費1500貫と寺領100石を寄進。
天正18年(1590)9月25日〜10月14日−秀吉湯治。小田原の陣集結、奥州仕置集結、天下統一が完遂。
天正18年(1590)10月4日−秀吉が有馬で茶会を行う。千利休、小早川隆景、有馬法印など。
天正19年(1591)8月9日〜18日−秀吉湯治。
文禄2年(1593)9月27日〜閏9月7日−秀吉湯治。
文禄3年(1594)−湯山に秀吉の別荘(湯山御殿)が建てられる。立退きの民家65戸に年貢が免除。
文禄3年(1594)4月29日〜5月17日−秀吉湯治。
文禄3年(1594)12月8日〜14日−秀吉湯治。淀殿が大坂城で拾(豊臣秀頼)を出産した記念と思われます。
慶長元年(1596)7月12日−慶長伏見大地震で秀吉の別荘(湯山御殿)や湯屋大破。源泉の温度上昇。
慶長2年(1597)−秀吉、有馬温泉再興
慶長3年(1598)、秀吉、別荘(上之湯、願の湯)再建。
善福寺・概要: 善福寺は戦国時代に豊臣秀吉から命ぜられ湯山の代官を務めました。その為、善福寺には有馬温泉周辺に関する行政面の古文書が残され、天正13年(1585)に北政所ねねが湯治に訪れた事や、天正18年(1591)10月4日には山内(湯山阿弥陀堂)で大茶会が開かれた事、文禄3年(1594)12月10日に、秀吉が有馬温泉に新御殿造営の為に移転する事になった家々65軒に地子銭や年貢の免除を命じている事などが記載されています。秀吉主催の茶会では自ら所有していた虚堂墨蹟や鴨肩衡などを使用し、茶堂を千利休が勤め、善福寺の住職も客として参加しています(現在もこの故事に因み茶会が開かれています)。当時の有馬温泉には「一の湯」と「二の湯」という2つの源泉があり、宿泊施設である20坊がそれぞれ10坊づつ外湯として利用し、その内の「一の湯」に対して善福寺が灯明を管理していた事から「灯明坊主」との異名があり、秀吉からも扶持米が支給されていました。又、湯山阿弥陀堂が明治時代初頭に廃寺になると寺宝で秀吉が当時の阿弥陀堂の住職の頭の形に模した茶釜を千利休に命じて天下一与次郎が製作したもの(阿弥陀堂釜)が善福寺に移されています。
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