野沢温泉・温泉街

野沢温泉(日本三御湯)の開湯には諸説あり奈良時代に行基菩薩が発見したとも、養老年間に猟師が巨熊の射抜いた際、熊が湯浴みをしたのを見つけたのが始まりとも、山伏が修行の際この地を訪れ発見したとも伝えられています(行基は近くの小菅神社にも由来を持っている事から小菅神社に向かう途中に当地を訪れたのかも知れません)。記録的には文禄9年に「湯山村」として記され、順徳天皇の御代には朝廷が選出した日本三御湯秋保温泉:名取御湯別所温泉:信濃御湯)に数えられました。野沢温泉は弘治3年には温泉地として周辺に聞こえる存在となり、寛永年間(1624〜1643年)に当時の飯山藩主(飯山城の城主)松平氏が湯屋(別荘)を設けて温泉場として本格的な整備を行いました。その後、一般の人々にも湯治を許可した事から湯治場として多くの人達が利用する事になりました。野沢温泉の源泉は大小30を数え、古くから「湯仲間」という組織によって維持管理運営されている13の外湯は地元住民だけでなく湯治客にも開放され外湯めぐりが出来ます。又、野沢温泉は野沢菜発祥の地として知られ、宝暦6年、当時の健命寺住職晃天園瑞が京都から天王寺蕪の種を持ち帰り蒔いたところ現在の野沢菜に変異したと伝えられています(諸説あり)。

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野沢温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
野沢温泉の小正月行事に「道祖神祭り」と呼ばれる火祭りがあります。実際見た事が無いので詳細は分かりませんが、一般的に見られる小正月行事である「どんど焼き」と道祖神の信仰、厄払いなどを組み合わせた独特の行事のようです。「どんど焼き」は日本全国で広く見られる習俗で、正月飾りで利用した門松や注連飾り、書き初めの作品などを一箇所にまとめ、それに火を着け、その火で炙った団子や餅を食べると1年間無病息災に暮らす事が出来ると云われ、どちらかというと素朴な民間信仰といった印象を受けます。それに比べ、野沢温泉の「道祖神祭り」は木材で巨大な神殿を42歳と25歳の厄年の男性が組上げ、祭り当日は42歳と25歳の厄年の男性が組上げた神殿を守り、それ以外の男性が火を着けるという戦いが繰り広げられま、見た目にも「どんど焼き」と「道祖神祭り」は似て非なるものに映る程、規模や意味合いが異なります。道祖神は道を司る神として集落境や、分かれ道、坂の上り口、峠の頂上などに祭られている事が常で、地域によっては、集落内に邪気や悪鬼の侵入を防ぐ守護神、夫婦和合、子宝、安産など多岐にわたります。野沢温泉でも本来は「上のどうろく神」と「下のどうろく神」の2箇所に別れ、それぞれ独自に祭りが行われていたそうですが、様々な理由から、集落から少し離れた現在地に祭り会場を定め、上下が合同で開催されるようになったそうです。

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