日本三名泉:草津温泉・偉人・伝承・歴史

日本三名泉:草津温泉

草津温泉(群馬県吾妻郡草津町)は有馬温泉(兵庫県神戸市)、下呂温泉(岐阜県下呂市)と共に日本三名泉(名湯)に数えられる天下の名湯です。開湯の時期については日本武尊(伝説の英雄)や行基菩薩(名僧)、源頼朝(征夷大将軍)など諸説ありますが室町時代以降は全国的に知られるようになり、室町時代の禅僧で歌人でもある万里集九は永正3年(1506)に編纂されたという「梅花無尽蔵(漢詩文集の東国旅行記)」には「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」と記載し一部では所謂、日本三名泉として認識されていたようです。文明16年(1484)に横瀬成繁(上野金山城の城主)が入湯し、永禄2年(1559)には小幡信貞(武田家家臣)が草津温泉に滞在中に居城である国峰城が奪われるなど、古文書などにも見られるようになり湯守である湯本氏も領主としての地位を固め武田氏に従属するようになっています。戦国時代に入ると丹羽長秀(織田信長、豊臣秀吉の家臣)、木曾義仲(木曽源氏棟梁、源頼朝の従兄弟)、長尾為景(越後守護代、上杉謙信の父親)、巴御前(源義仲の妾、女大将)、堀秀政(織田信長、豊臣秀吉の家臣)、朝日姫(豊臣秀吉の妹、徳川家康正室)、近衛龍山(関白左大臣・太政大臣)、豊臣秀次(豊臣秀吉の甥、養子、関白)、大谷吉継(豊臣秀吉の家臣)、前田利家(織田信長、豊臣秀吉の家臣)などの大名や為政者が度々入湯するようになり、江戸時代に入ると広く民衆にも広がり、文人墨客である小林一茶(江戸時代を代表する俳諧師)や十返舎一九(江戸時代後期の戯作者、浮世絵師)などが目立ち、明治時代に入ると明治時代以降はであるベルツ博士によって一大保養地としても世界的にも紹介されました。戦後も岡本太郎(日本を代表する芸術家)など著名人が草津温泉に湯治に訪れています。当サイトでは日本三名泉である草津温泉に関係が深い人物の一部を掲載していきたいと思っています。

草津温泉利用者(偉人・歴史上の人物)一覧

人物名
人物(偉人)紹介
利用理由
利用年号
日本武尊記紀に登場する皇子東夷東征で当地を訪れた際、湯煙に誘われ源泉を発見西暦72〜115年
行基菩薩奈良時代の高僧全国を巡錫中に当地を訪れ、祈祷すると源泉が湧き出た養老5年(721)
木曽義仲朝日将軍幼少時に隠れ住み、遺児が湯本氏を引き継いだ平安時代末期
巴御前木曽義仲の愛妾義仲自刃の前に戦場を離脱し当地に落ち延びた元暦元年(1184)
源頼朝鎌倉幕府初代将軍浅間山の麓で巻き狩りをしている最中に偶然源泉を発見建久4年(1193)
横瀬成繁上野金山城の城主家臣300人を連れて湯治明応4年(1495)
長尾為景越後国守護代箕輪城主、長野業尚と共に湯治、大光宗猷禅師と出会う大永6年(1526) ?
曇英恵応曹洞宗の僧箕輪城主長野業尚と越後国守護代長尾為景と出会う大永6年(1526) ?
長野業尚箕輪城主長尾為景と共に湯治、大光宗猷禅師と出会う大永6年(1526) ?
小幡信貞小幡城主草津温泉に湯治中に国峰城が落城永禄2年(1559)
丹羽長秀越前123万石大名堀秀政や多賀新左衛門などを引き連れて湯治天正10年(1582)
堀秀政信長・秀吉家臣丹羽長秀、多賀新左衛門と共に湯治天正10年(1582)
多賀常則信長・秀吉家臣丹羽長秀、堀秀政と共に湯治天正10年(1582)
朝日姫徳川家康正室病気療養の為の湯治と思われます天正15年(1587)
近衛龍山関白・太政大臣光泉寺薬師堂に10首の和歌を納めた天正15年(1587)
豊臣秀次豊臣秀吉の甥小諸城の城主依田康国が饗応天正16年(1588)
依田康国小諸城の城主豊臣秀次(豊臣秀吉の甥)を草津温泉で饗応天正16年(1588)
大谷吉継豊臣家家臣ハンセン病の湯治治療文禄3年(1594)
前田利家加賀100万石藩祖一族などを伴い約1ヶ月に渡る長期の湯治治療慶長3年(1598)
小林一茶江戸時代の俳諧師草津の俳人黒岩鷺白と親交があり3度草津を訪ねた文化5年(1808)
十返舎一九江戸後期の戯作者上州草津温泉道中膝栗毛の製作、取材を兼ねた湯治文政2年(1819)
ベルツ博士ドイツ出身の医師草津温泉の有用性を論文の発表により世界中に広めた明治11年(1878)
岡本太郎日本の大芸術家草津温泉で投宿中に湯畑周辺のデザインを依頼された昭和50年(1975)
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