豊臣秀次(日本三名泉:草津温泉)

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豊臣秀次・概要: 豊臣秀次は永禄11年(1568)、豊臣秀吉の姉である瑞竜院日秀と三好一路(出生不詳、自称大和国の三輪氏の子孫)の子供として生まれ、秀吉には一族、譜代の家臣が少なかった事から幼少時から重用されました。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦ではまだ16歳という年齢と実戦不足から徳川軍との局地戦で敗退し率いた軍に大きな損失を与えてしまいます。

その後は紀伊雑賀征伐に従軍し、千石堀城(大阪府貝塚市橋本)の戦い、太田城(和歌山県和歌山市太田)攻防戦、四国征伐では、岩倉城(徳島県美馬市脇町田上)攻防戦などで功績を挙げ、近江、大和など43万石、近江八幡城(滋賀県近江八幡市)の城主に抜擢され従三位中納言にも叙任しています。

さらに、天正18年(1590)の小田原の役の山中城(静岡県三島市)攻防戦やその後の奥州仕置き、九戸の乱平定で功を挙げ、織田信雄が改易後に旧領100万石が与えられます。天正19年(1591)秀吉の弟である豊臣秀長、同年には秀吉の嫡男鶴松が相次いで死去した事を受け、秀次が秀吉の養子となりさらに関白職を譲られ形式上は豊臣家を相続した事になり隆盛を極めました。

しかし、文禄2年(1593)秀吉の側室である淀殿(浅井長政と織田信長の妹、市との子供、浅井三姉妹の長女)が秀頼を生むと状況が一辺、次第に疎まれるようになると、疑心暗鬼から度々乱行を起し、文禄4年(1595)、遂に謀反の疑いから高野山(和歌山県伊都郡高野町)に蟄居させられ自刃に追い込まれ正室や側室、子供、家臣など多くの縁者が京都三条河原で処刑されました。

豊臣秀次は「殺生関白」と呼ばれる程、小さな罪でも次々と家臣を処刑し、さらに、刀の試し切りで罪人を切り殺したり、鉄砲で庶民を撃ったり、胎児を妊婦から取り出したりとの逸話が絶えませんが、何れも江戸時代に秀次を陥れる為に流布したものとされ、実際は武術に長けると同時に文化的な教養も豊で、領地の経営も堅実に行っていたとされます。

豊臣秀次が草津温泉(日本三名泉)に湯治に訪れたのは天正16年(1588)、饗応役となった小諸城(長野県小諸市)の城主依田康国は茶屋を設けて秀次を接待したそうです。秀次はまだ秀吉の養子にはなっていなかったものの、豊臣家の実力者として認識されていた事が窺えます。

豊臣秀次は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

草津温泉(日本三名泉):観光・見所
湯畑
草津温泉:湯畑
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西の河原
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