日本三名泉:草津温泉・横瀬成繁

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草津温泉・偉人・歴史・由来
横瀬成繁・概要:横瀬成繁(5代)は横瀬国繁(4代)の子供として生まれ、 金山城(群馬県太田市)当初は父親である国繁と共に主家である新田岩松家の重臣を担いました。横瀬氏は、武蔵七党の横山氏・猪俣氏の一族で新田荘横瀬郷を領した事から地名に因み横瀬氏を称したのが始まりとされます。一方で新田義貞の3男新田義宗の子供とされる新田貞氏が横瀬時清の娘婿として横瀬氏に入った事から新田家の後裔を自称しています(諸説有り)。主家である新田岩松家も同じく新田家の後裔であった事から長く重臣として岩松家を支えていました。国繁の代に岩松家の筆頭家老である執事にまで登り詰め、長享2年(1488)又は明応3年(1494)に執事の座を成繁に引き渡しています。当寺の岩松家は明純と尚純の一族間で争いが生じ、横瀬氏がその間を取り持つという形で一時和解しましたが、明応4年(1495)成繁は明純、尚純共に岩松家の居城である金山城(群馬県太田市)から追い出し、事実上岩松家と金山城を掌握しました。

草津温泉の湯治伝説: 同年4月13日、成繁は慰労や傷を癒す為、家臣300名を引き連れて金龍寺(群馬県太田市)草津温泉に湯治に訪れ日本三名泉を堪能していましたが、その間隙を突いて4月17日、岩松尚純と明純は長尾房清の支援を受け家臣である佐野小太郎に命じて金山城に侵攻させました。急遽、草津温泉を引き上げ金山城を死守しましたが、僧侶である松陰が当時の新田荘周辺の事情を記載した「松陰私語」に「嫡子成繁者四月十三日草津へ湯治、可走廻被官人等三百余人供奉、金山者弟四郎只一人在城、大油断之時分也」と記載され大変な油断があったと評されています。その後、成繁は反対派を一掃し同年の12月18日に足利成氏(古河公方)の仲介により和睦が成立し、形式的には岩松尚純が隠居となり尚純の嫡子で幼少だった夜叉王丸が岩松家の家督を継ぎ横瀬成繁父子が夜叉王丸の名代となっています。成繁は文亀元年(1501)に死去、戒名:霊雲寺義山宗忠居士、菩提は横瀬氏、由良氏の菩提寺である金龍寺(群馬県太田市)に葬られ境内には義山宗那忠居士」銘の五輪塔が建立されています。

横瀬成繁は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

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