日本武尊(草津白根神社:祭神)

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草津温泉・偉人・歴史・由来

日本武尊・概要: 日本武尊は奈良時代に編纂された「古事記」、「日本書紀」などで記されている皇子の1人で、それによると第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父親として描かれています。特に英雄視されるような行動が多く、天皇の命により西征して九州の熊襲や吉備、難波の邪神などを平定し、さらに東征では北上川流域(現在の宮城県)まで進軍し陸奥国を平定すると武蔵国(現在の東京都、埼玉県)、上野国(現在の群馬県)、信濃国(現在の長野県)、尾張国(現在の愛知県)を悪鬼達を討ちながら凱旋し、伊吹山(岐阜県と滋賀県の境)の神の毒気により能煩野(三重県亀山市〉で亡くなっています。

ただし、「古事記」、「日本書紀」共に神話と事実が混在する構成で、どこからが神話でどこからが事実は不詳で、一般的には時代が下がる記述につれ事実が多くなるとされますが、編纂した当時の政権により歪曲されている可能性も高い為、精査が必要とされます。

日本武尊の父親とされる景行天皇の在位は西暦72〜115年、歴史教科書からすると卑弥呼が女王だった邪馬台国以前の話で実在が疑問視されています。日本武尊の子供とされる仲哀天皇(皇后は朝鮮半島に侵攻したとされる神功皇后=卑弥呼?)も実在が疑問視される天皇の1人で、結果的には日本武尊も架空の人物とされます。異説としては、数人の英雄を日本武尊1人の実績に積み上げたとも云われています。

草津温泉の開湯伝説: 草津温泉(日本三名泉)に伝わる伝承によると日本武尊が東夷東征を完遂し、都に凱旋途中に当地の付近を通りかかった際、山間から湯煙が立ち上るを見て源泉を発見しました。日本武尊は源泉に浸かれる大石に座り湯浴びをし、その石は御座石と呼ばれるようになったと伝えられています。

「日本書紀」では日本武尊が上野国(群馬県)から信濃国(長野県)に抜けている事から草津街道沿いを南下し草津温泉に至ったとも考えられますが、実在は疑問視されています。御座石は現在の御座之湯付近にあり石と木造の湯船があったと云われますが現在は見られないそうです。

白根神社・概要: 草津温泉の鎮守である白根神社は平安時代に編纂された白根神社上野国神名帳に記載されている格式の高い古社で、往時は白根大明神が祀られていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏教色が一掃され、日本武尊が祀られるようになっています。白根大明神は、火山活動が活発で古くから信仰の対象だった白根山を事実上の御神体として祀られていた為、中世以降は神仏習合し山岳修験と深く関わり仏教色の強い神様でした。当時の神仏分離や廃仏毀釈によって仏教色が強い白根明神が姿を消し、草津温泉の開湯伝説として語り継がれている日本武尊の分霊が改めて勧請され草津温泉の守護神という格付(郷社)になっています(神仏分離令や廃仏毀釈は当時の日本の宗教界に大きな影を落とし、無数の仏像や神像が破棄され、祭神の変更、神社の統合による廃社、寺院の廃寺が全国いたるところで行われました)。

群馬県は日本武尊の神話の舞台でもあった為、多くの伝説や伝承が残され、日本武尊が愛妻「弟橘姫」の身投げをして海神の怒りを沈めた事から「吾嬬者耶」と嘆き、それに因み「嬬恋村」という地名になったとの伝承や、長野県と群馬県の県境にある碓氷峠には日本武尊が勧請したという熊野神社、群馬県利根郡みなかみ町、川場村、片品村の境にある標高2158mの武尊山は日本武尊の東征の故事に因み名付けられたと伝えられています。

日本武尊は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

草津温泉(日本三名泉):観光・見所
湯畑
草津温泉:湯畑
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光泉寺
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西の河原
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白根神社
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白旗の湯
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地蔵乃湯
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鬼の相撲場
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鬼の茶釜
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