大谷吉継(日本三名泉:草津温泉)

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草津温泉・偉人・歴史・由来

大谷吉継・概要: 大谷吉継は豊臣秀吉の家臣で、石田三成の親友として不利と悟りながら関が原の合戦に及び自刃した義将として知られています。出生や幼少時代の詳細は不詳で永禄元年(1558)又は永禄8年(1565)に近江国(滋賀県)又は豊後国(大分県)で生まれたとされます。

天正年間(1573〜1593年)の初め頃に豊臣秀吉に仕えるようになり天正5年(1577)には御馬廻り衆として記録に名前が記載されています。その後も上月城(兵庫県佐用郡佐用町)や三木城(兵庫県三木市上の丸町)、備中高松城(岡山県岡山市北区高松)などの戦いに従軍した事で次第に信任されるようになり、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは、七本槍に匹敵する活躍を見せ、天正13年(1585)には従五位下・刑部少輔(刑事訴訟に関する官職)に叙任され、以後、「大谷刑部」と呼ばれるようになっています。

天正14年(1586)の九州征伐では石田三成の下で功を挙げ、天正17年(1589)には敦賀城(福井県敦賀市)5万石の城主となり、城下町や領内経営にも才能を見せています。天正18年(1590)の小田原の役、奥州仕置き、それに伴う一揆の鎮圧、文禄元年(1592)の朝鮮出兵と豊臣家の奉行の1人として尽力しています。

慶長3年(1598)に豊臣秀吉が死去すると大谷吉継は徳川家康に近づきますが、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは石田三成の懇願により親友を裏切る事が出来ず西軍に加担、吉継は北陸地方の諸将を調略すると共に、豊臣家を裏切った前田利長を権勢する為、吉継が海上から直接金沢城(石川県金沢市)を急襲するとの噂を流布させ、前田軍の積極的な軍事行動を押さえ込んでます。

本戦での関ヶ原では、裏切る可能性が高かった小早川秀秋を封じる為に布陣し、数度にわたり小早川軍を押し返していましたが、予想外に脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱の4隊が突如して裏切り側面を突いた為、大谷隊は瓦解し、吉継も自刃しました。

大谷吉継が草津温泉(日本三名泉)を訪れたのは文禄3年(1594)、吉継は皮膚病(ハンセン病)を患っており、その治療と思われます。草津温泉がハンセン病に功能がある事は明治時代にベルツ博士などが科学的に証明していますが、大谷吉継も「草津温泉の湯は眼に効いた」と記載した書状を直江兼続(上杉家執政)に送ており、戦国時代にも経験則から知られた存在だったのかも知れません。又、当時の草津温泉周辺は真田家が支配し、吉継の娘が真田幸村の正室だった事からも、真田家から勧められたとも考えられます。

大谷吉継は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

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