日本三名泉:草津温泉・長尾為景

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草津温泉・偉人・歴史・由来
長尾為景・概要: 為景(上杉謙信の父)の生年月日は不詳ですが永正3年(1506)、越中一向一揆との対立により起こった般若野の戦いで父親である長尾能景が討死した事を受け、長尾家の当主となり越後守護代に就任しました。翌年の永正4年(1507)には越後守護職である上杉房能との対立である「永正の乱」により為景は幼少である上杉定実(上杉房能の養子)を擁立し、房能を自刃に追い込み下克上に成功、形式上は越後国を掌握する立場となりました。しかし、内情はかなり不安定な状況で、房能の兄で関東管領の上杉顕定の侵攻を受け、一時佐渡島に退去する事態となっています。その後、復権すると定実と遠戚関係を持って地位を確立し、加賀や越中にまで侵攻しましたが、中々越後国内の内乱は治まらず度々国人領主や上条定憲などの反乱が起こっています。天文5年(1536)に隠居、家督は嫡男長尾晴景に譲られ天文11年(1543)に死去したと推定されています(隠居し家督を譲った後も実権は為景が掌握していたとも云われています)。因みに跡を継いだ長尾晴景は病弱な上に穏便で文学や芸術に傾倒する傾向があったとされ、父親である為景とは逆に越後国内の国人領主には融和政策を行い、当初はうまくいったものの、最終的には混乱を招き、早々に隠居に追い込まれ家督を弟である長尾虎千代(景虎、後の上杉謙信)に譲っています。

草津温泉の湯治伝説: 長尾為景が草津温泉(日本三名泉)に訪れたのは大永6年(1526) 、箕輪城主であった長野業尚と一緒だったとされ、偶然湯治中だった大光宗猷禅師と出会い、教化を受けたそうです。大光宗猷禅師とは曇英恵応の事で長尾家の菩提寺である越後春日山林泉寺(新潟県上越市:明応6年:1497年、長尾能景が父親の17回忌追善供養のため曇英恵応を招き開山)や長野家の菩提寺である室田山長年寺(群馬県高崎市室田町:文亀元年:1501年、長野業尚が曇英恵応を招き開山)を開山した曹洞宗の高僧で、ここで問題なのは生没年が応永31年(1424)〜永正元年(1504)という事で、草津温泉に訪れたのが大永6年(1526)としたら既に死没しています。さらに、長野業尚も文亀3年(1503)に死没しています。別の情報には草津温泉に訪れたのが延徳2年(1490)という年号がありますが、一般的に長尾為景の誕生年が延徳元年(1489)なので、こちらが正しければ為景は僅か1歳で草津温泉に訪れ大光宗猷禅師から教えを請うた事になります。為景の誕生年の別説には文明3年(1471)説があるので、こちらが正しければ延徳2年(1490)に草津温泉の湯治に訪れても3人共に矛盾が無くなりますが・・・・為景と父親である長尾能景との年齢に矛盾が生じます。

長尾為景は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

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