日本三名泉:草津温泉・小幡信貞

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草津温泉・偉人・歴史・由来
小幡信貞・概要: 小幡信貞は武田家に仕え、上野侵攻(箕輪城の戦など)や駿府攻め、三増峠の戦い、三方ヶ原の戦いで従軍し大きな功績を挙げると信頼を勝ち取りました。赤備えの猛将として知られ長篠の戦いでは「馬上巧者」との記述もあり織田軍からも一目置かれる存在だったそうです。又、愛妻家でもあり、武田信玄から現在の妻と離縁して武田家縁の女を正室として迎えるようにとの提案されると、妻の身を案じ拒否、これにはさすがの信玄も感じ入り益々信貞を信頼するようになったと伝えられています。天正10年(1582)武田家が滅ぶと、織田家に転じて織田家家臣である滝川一益に一時従いますが、同年、本能寺の変で織田信長は明智光秀で急襲され自刃、一益は後ろ盾を失い関東進出を断念し自領に引き上げた為、信貞は小田原北条氏に従う事になります。天正18年(1590)の小田原の役では小田原城(神奈川県小田原市)の籠城し、北条氏が滅亡に伴い大名家からは没落し、武田家家臣時代に旧知の仲だった真田昌幸を頼り塩田平(長野県上田市:信州の鎌倉)で隠遁生活を行い、天正20年(1592)、享年52歳で死没しています(後年、塩田平、別所温泉にある安楽寺に墓碑が建立されたそうです。)。

小幡信貞が草津温泉(日本三名泉)に湯治に訪れたのが永禄2年(1559)、この間、居城である国峰城(群馬県甘楽町)は箕輪城の城主、長野業正に急襲され落城しています。小幡氏は元々、関東管領上杉家の家臣で、同じく重臣として大きな影響力のあった長野業正の長女を信貞が娶るという間柄でした。しかし、上杉憲政の代に凋落が激しくなり越後に逃亡、その後、信貞は北条氏康に転じた為、旧上杉家勢力で外戚にあたる長野業正の怒りを買い草津温泉の湯治で留守を見計らい、小幡一族の小幡景純と図り国峰城を奪い取りました。信貞は草津温泉から国峰城に帰る事が出来ず、僅かな兵と共に武田家を頼り甲斐へ落ち延び、永禄4年(1561)に武田家の支援を受けて国峰城を奪取し再び城主として返り咲いています。

小幡信貞は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

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