近衛龍山(日本三名泉:草津温泉)

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草津温泉・偉人・歴史・由来

近衛龍山・概要: 近衛龍山は戦国時代から江戸時代初期にかけての公家で天文5年(1536)に近衞稙家の長男として京都で生まれています。戦国時代には越後の上杉謙信と関係が深く永禄2年(1559)に謙信が上洛した際には血書の起請文を交わした事でも知られています。

謙信が関東に進出すると、それに呼応して古河城(茨城県古河市:形式的には古河公方の本城である古河城が関東地方の政治の中心機関とされました。)に入りました。龍山の姉が室町幕府13代将軍足利義輝の正室だった事から幕府内でも大きな影響力があり、14代将軍足利義栄が就任する際も関与があったとされます。

その為、織田信長が擁立する足利義昭が永禄11年(1568)に15代将軍に就任すると京都(朝廷)から追放されています。その後、信長包囲網の一翼を担いましたが、脱退し以後は信長とは親密な付き合いになったとされ、織田家の外交官的な立場で、敵対する諸大名や社寺などの調停を度々行い、甲州征伐などにも従軍しています。

天正10年(1582)の本能寺の変では明智光秀に加担したのとの疑いが掛けられ、徳川家に身を寄せるようになり、晩年は慈照寺東求堂(京都府京都市左京区銀閣寺町)に隠遁しました。

草津温泉の伝承: 近衛龍山が草津温泉(日本三名泉)を訪れたのは天正15年(1587)5月、光泉寺が宿所となり草津温泉の守護神である薬師如来の霊験に感謝して10首の和歌を薬師堂に奉納し、和歌の御題として「結ぶてふ此谷影のいで湯こそ むべも老せぬ薬なりけれ」の懷紙が添えられていました。

近衛龍山公和歌10首一覧
五月雨−もしらぬ草木あまたに茂あひて しらねに今朝は雪そ降りける
海辺夏月−らさめのすきたつ山のみねこえて かすかに名のるほととぎすかな
山路新樹−まおろし磯辺の松に吹たちて くれてほたるの色にみゆらん
契後隠恋−もはなをかさなる山のをちこちも ゆきかふ袖もまれのたひ人
郭公幽−けりあふ草のむらむらをく露や さそふ水あらばいなんとぞ思ふ
馴増恋−らさりき露の情になれし葉の なるゝに袖のぬれんものとは
夏草夕露−きはたたちきりおきにし閨の戸を むねはしり火に心やけをり
旅行友稀−くからぬ人にそひねのきぬぎぬは あけやらぬ夜の人のつれなさ
別後恋−なのなる木曽路の山のけわしきに へにけん秋を知る人ぞなき
寄湯祝−すふてふこの谷かけの出湯こそ むへも老せぬくすり成けり

上句の頭の文字を1文字づつ並べると「なむやくししうにしむ=南無薬師十二神」となるそうです。

近衛龍山は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

草津温泉(日本三名泉):観光・見所
湯畑
草津温泉:湯畑
草津温泉・湯畑
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西の河原
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白旗の湯
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鬼の相撲場
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鬼の茶釜
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