多賀常則(日本三名泉:草津温泉)

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多賀常則・概要: 多賀常則は多賀大社(延喜式内社、官幣大社、祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命、長寿祈願の神として民衆の信仰の対象となり多くの参拝者が訪れた。)の神官を勤めた多賀一族出身と思われますが詳細は不詳、常則の代には近江国(現在の滋賀県)犬上郡の土豪で浅井家に仕えていました。

浅井長政が織田信長から離反した頃に織田家に転じたと見られ、元亀元年(1570)には織田家の家臣として大津穴太(現在の滋賀県大津市坂本付近)に布陣し浅井、朝倉軍と睨み合っています。

その後も、天正元年(1573)の一乗谷城の戦い(朝倉家滅亡)や天正9年(1581)の第二次天正伊賀の乱の平定、天正10年(1582)の甲斐、信濃侵攻(武田家滅亡)などに従軍し、信長の信任を得ると三十六飛将(信長から朱旄を許された36人の武将:池田紀伊守・堀久太郎・山田三左衛門・苗木久兵衛・中川丹波守・磯野丹波守・長谷川丹波守・中條将監・池田伊與守・水野監物・武藤彌平兵衛・近藤山城守・織田勘解由左衛門・原備中守・鹽川伯耆守・中島豊後守・山岡玉林斎・山岡美作守・飯尾隠岐守・水野大膳・水野下野守・水野帶刀・平井加賀守・長岡與一郎・細川兵部大輔・多賀新左衛門・武藤惣右衛門・長原筑前守・山本山城守・石破彦一・進藤山城守・永井雅樂頭・戸田武蔵守・鹽川吉太夫・別嘉右近・福田三河守)の1人に数えられるようになっています。

又、茶の湯など文化にも精通した文化人でもあったようで、天正8年(1580)には同じく織田家家臣の富田一白と共に津田宗及(茶湯の天下三宗匠)の茶会に出席しています。天正10年(1582)の本能寺の変での行動は不詳で、常則自身は明智光秀と親しい間柄だったそうですが、その後、豊臣秀吉(羽柴秀吉)に従っている事からも中立か秀吉側で行動していたとも考えられます。

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは秀吉の方として従軍し、その後は豊臣秀長の家臣として大和国(現在の奈良県)高市郡曾我村周辺2千石が与えられています。天正15年(1578)、秀吉の九州征伐では秀長軍として従軍し、陣中で死去したとされます。後裔は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍に与し、本領を安堵され江戸時代は旗本として明治維新を迎えています。

多賀常則が草津温泉(日本三名泉)に湯治に訪れたのは天正10年(1582)4月3日、武田勝頼が嫡男信勝とともに天目山で自害したのが3月11日である事から、武田家の滅亡の慰労と戦傷を癒す事が目的だったと思われます。多賀常則は同じく織田信長の家臣である丹羽長秀堀秀政と共に一時の暇が与えられ草津温泉で疲れを癒しています。

多賀常則は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。

草津温泉(日本三名泉):観光・見所
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