温泉街・町並み

  日本三名泉(ホーム)日本の温泉街>温泉街
項    目
場    所
写  真 備  考
・草津温泉
・群馬県
・草津町
草津温泉 ○−草津温泉有馬温泉下呂温泉と共に日本三名泉に数えれる名泉です。温泉街は、草津温泉のシンボル的な存在である湯畑を中心に放射線状に町が伸びている独特な構造をしています。歴史ある温泉街なので、計画的な区画割りではなく、時代の経緯と共に随時拡張されたようです。湯畑の北側には北方鎮護として鎮守である白根神社、北東の鬼門鎮護には日晃寺、北西の裏鬼門鎮護には温泉街の守護神である光泉寺が境内を構えています。又、湯畑は、すり鉢のような地形の底に位置している事から廻りは緩い高台が囲われ、階段や坂道が多いのも温泉街の特徴の1つとなっています。湯量も豊富で、湯畑の他、西側には西の河原源泉、地蔵湯畑があり何れも往時は霊場と呼ばれ信仰の対象となる地で現在でもその名残が見られます。
・別所温泉
・長野県
・上田市
別所温泉 ○−別所温泉も歴史ある温泉街で、古代信濃国の中心に近く、官道である東山道も比較的近い場所を通っていた事から歴史ある社寺が多く存在しています。温泉街の特徴としては湯治場であると同時に門前町である事で、特に北向き観音堂に至る参道は落ち着いた町並みが現在でも残され雰囲気を感じる事が出来ます。さらに、安楽寺には鎌倉幕府執権北条家の一族、塩田北条氏の唯一遺構である八角三重塔が現存し多くの観光客が訪れています。又、別所温泉の温泉街には小さな共同浴場が数軒点在し、往時は源泉が異なる7つ温泉がありそれぞれ功能が異なる事から7苦難の湯と呼ばれ、清少納言の代表作「枕草子」の一説の「湯は七久里、有馬の湯、玉造の湯」の「七久里」を別所温泉とする説もあります。
・渋温泉
・長野県
・山ノ内町
渋温泉 ○−渋温泉の温泉街は湯治場と温泉寺の門前町、草津街道の宿場町という3つ意味合いをもった町です。温泉寺は武田信玄と縁が深く、渋温泉が信玄の隠し湯と呼ばれる由縁となっています。江戸時代には武田家の家臣筋から大名となった松代藩主真田家の湯治場となり本陣指定を受けた温泉宿は現在も営業し伝統を引き継いでいます。基本的に街道と参道が略同じ経路で、その主要道から細かい路地が幾重にも分かれ、普通車輌が擦違えない細い道もあります。伝統的な木造3階建の温泉宿が複数現存し、温泉街らしい町並みが残されています。又、宿場町時代には歓楽街的な要素を強かった事から小さな神社や御堂が複数あるのが特徴の1つで、外湯も健在で外湯廻りが目当ての湯治客も多いようです。
・野沢温泉
・長野県
・野沢温泉村
野沢温泉 ○−野沢温泉も古くから開けていたと思われる温泉街で、鎌倉時代より以前の律令制による犬養部が周囲に住み着き、利用していた事から犬養湯と呼ばれていたようです。鎌倉時代には中央にも聞こえる存在となり、順徳天皇が編纂した「八雲御抄」にも犬養御湯が記載され、3つの温泉だけが「御」の字が付けらていた事から「日本三御湯」とも呼ばれました。本格的に温泉街として成立したのは江戸時代に入ってからで、野沢温泉の領主となる飯山藩の藩主松平氏が御殿湯を整備し、江戸時代後期には24軒の湯宿があったと記録されてます。現在も御殿湯があった大湯の周辺には商店や飲食店、土産物店などが集まり中心だった名残が見られます。
・下呂温泉
・岐阜県
・下呂市
下呂温泉 ○−下呂温泉は草津温泉(群馬県草津町)と有馬温泉(兵庫県神戸市)と共に日本三名泉に数えられる名泉として知られています。下呂温泉の温泉街は湯治場と飛騨街道の宿場町、温泉寺の門前町の要素を持った町です。高山には古代飛騨国の国府があった事から東山道から分岐して国府に至る官道が古くから整備され、下呂温泉の近くにも駅家と呼ばれる江戸時代の宿場町のような町があった事から古くから人工の集積があったと思われます。現在も街道沿いには古い温泉街の町並みが見られ、その後に開発された大型温泉宿群とは一線を画す雰囲気が感じられます。
・三朝温泉
・鳥取県
・三朝町
三朝温泉 ○−三朝温泉は平安時代末期に源義朝の家臣である大久保左馬之祐が三徳山三仏寺に源氏再興の祈願する道中で、一匹の傷ついた白狼を救いました。その白狼は温泉神の化身だった為、その晩霊夢に白狼が出現し、楠の老木の根元に源泉が湧き出ている事を告げ姿を消しました。左馬之祐は御告に従うと、言われた通り源泉を発見し何時しか株湯と呼ばれるようになったと伝えられています。名刹として知られる三徳山三仏寺を控え、世界屈指のラドン含有量ラジウム温泉である事から多くの人が湯治に訪れたとされ、現在も風情ある温泉街の町並みが残されています。
・温泉津温泉
・島根県
・温泉津町
温泉津温泉 ○−温泉津温泉は平安時代に1人の旅僧が狸が湯浴びをし、傷を癒していたのを発見したのが始まりとされ、室町時代に入り修行僧が当地を訪れ、源泉を利用して温泉場を整備し広く知られるようになっています。修行僧の後裔は戦国時代に領主となった毛利氏から改めて湯守の任を認められ引続き温泉津温泉の開発に尽力しています。一方、内陸部で石見銀山の開発が本格化すると、温泉津湊が、産出された銀などの鉱物の積出し湊に指定され大きく繁栄しました。江戸時代に入り積出し湊が瀬戸内海に変更した後も、大消費地だった石見銀山に物資を運ぶ中継地として北前船の寄港地となり引続き繁栄が続きました。温泉津温泉の温泉街は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、石見銀山と共にユネスコの世界遺産に選定されています。
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