渋温泉・温泉街

渋温泉(長野県下高井郡山ノ内町)の歴史は古く行基菩薩(奈良時代の高僧)が当地の巡錫で訪れた際見つけたととも云われています。戦国時代には信州(現在の長野県)を支配した武田信玄が温泉寺を庇護する事で温泉開発させ川中島の戦いで負傷した家臣達を養生させたと言われています。石畳の道には初湯、笹の湯、綿の湯、竹の湯、松の湯、目洗い湯、七操の湯、神明滝の湯、大湯の9つの共同浴場の外湯巡りが有名で、江戸時代には数多くの文人墨客や著名人が訪れたという温泉街の町並みが残されています。源泉は37箇所でそれぞれの温泉宿や共同浴場に引き込まれている為、泉質や効能が源泉ごとに異なっています。

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渋温泉・温泉街<
歴史、つぶやき、独り言
渋温泉はよく武田信玄の隠し湯として紹介される事が多いようです。地形的には余り隠しているようには見えませんが、温泉街の最奥に境内を構える温泉寺には武田信玄の安堵状が残され、寺紋も武田家の家紋である武田菱を掲げている事から関係が深かった事が窺えます。武田信玄の領地だった現在の長野県や山梨県には「信玄の隠し湯」を歌った温泉が数多く存在し、全ての温泉に信玄が関わったかの真偽は判りませんが、家臣達に対しての保養所や合戦で受けた疲労回復や傷の治療などに利用していたとも考えられます。又、武田軍の莫大な軍資金となった鉱山開発にも大きく関係したようで、鉱山の発掘の際に偶然に見つけたものや、家臣同様に鉱夫達の保養や疲労回復の為に利用したと思われます。

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