行基と渋温泉

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渋温泉との関係性

【 行基・伝説 】−神亀年間(724〜729年)、行基菩薩が全国を巡錫の旅で当地を訪れた際、偶然源泉を発見したのが始まりとされ、その際、渋温泉の守護仏として自ら薬師如来像を彫刻し一宇を設けて安置したと伝えられています。源泉を発見した場所は現在の大湯付近だったとさ、大湯の入口付近には「行基菩薩頌徳碑」が建立され、それを見下ろす高台には「渋薬師庵」と呼ばれる御堂があり薬師如来が祭られています。また、外湯の1つ「初湯」には行基菩薩が最初に見つけたのはこちらの方で、その源泉で托鉢の鉢を洗った事から「鉢湯」と呼ばれ、それが転じて「初湯」と呼ばれるようになったと伝えれています。

渋温泉   渋温泉

【 行基・実・年表 】−神亀元年(724)、和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に清浄土院(高渚寺)とその尼院を建立。神亀2年(725)、河内国交野郡(大阪府交野市・枚方市・寝屋川市の一部)に久修園院を起工。神亀3年(726)、和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に檜尾池院を建立。神亀4年(727)、和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に大野寺とその尼院を起工。

【 場  所 】−長野県下高井郡山ノ内町

【 概  要 】温泉街の最も奥に境内を構える温泉寺は嘉元3年(1305)に虎関師練国師によって開かれている事から少なくとも鎌倉時代には温泉場として形成されていた事が窺えます。戦国時代に入り当地が武田信玄の支配下に入ると信玄により温泉街が整備され、永禄4年(1561)の上杉謙信との決戦である川中島の戦いの後には傷ついた兵士の保養所として利用された事から「武田信玄の隠し湯」とも呼ばれています。江戸時代に入ると、松代藩(長野県長野市松代町:本城−松代城)の藩主真田家の庇護を受け、温泉街には真田家の本陣指定された湯宿が現在も存続しています。又、北国街道と上州高崎(現在の群馬県高崎市)までを結ぶ草津街道の宿場町でもあり、多くの往来がありました。草津街道日本三名泉に数えられる草津温泉(群馬県草津町)を通過した事から、多くの湯治客を草津温泉に取られる為、渋温泉では享楽的要素の強い温泉地だったとされます。明治時代以降は多くの文人墨客が訪れるようになり、現在も当時の雰囲気が残る町並みが続いています。

【 行基・周辺・史跡 】−小菅神社(長野県飯山市:行基菩薩が八所権現の本地仏を彫刻、加耶吉利堂を造営して安置)・野沢温泉(長野県下高井郡野沢温泉村:行基開湯伝説)・湯田中温泉(長野県下高井郡山ノ内町:行基開湯伝説)

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行基菩薩縁の温泉

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※ 「行基菩薩と温泉」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。ただし、推論、私論ばかりなので最終的の責任は負いかねますので、問題等ありましたら自己責任でお願いします。リンクはフリーですが写真、文章の利用は許可しませんので御理解の程よろしくお願いします。