行基と伊香保温泉

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伊香保温泉との関係性

【 行基・伝説 】−天平年間(729〜749年)に行基菩薩によって発見されたとの伝説が残されているようですが、その経緯などは不詳です。「神道集」によると推古天皇(第33代天皇・在位:593〜628年)の御代に高光中将の菩提を弔う為、伊香保山の東麓の岩滝沢の北岸に寺院が創建されました。その後、高光中将の甥である恵美僧正が別当職に就任すると寺号を「水沢寺」に改め、本尊として高光中将の奥方である伊香保姫縁の千手観音を祭っていました。その後、伊香保姫が伊香保沼に身を投げ、水沢寺に手厚く葬ると恵美僧正の霊夢に伊香保姫の御霊が出現し、「水沢寺の守護神になります」との御言葉を賜り、伊香保大明神として社を設けて境内に祭るようになりました。光仁天皇(第49代天皇・在位:770〜781年)、上野国司の柏階大将知隆は伊香保山を散々荒らしたあげく、水沢寺の境内に鹿を追い詰め射殺すと、寺の僧侶達はその鹿を国司に渡さず、境内に篤く葬りました。国司はこの行為に激怒し、水沢寺を全山焼き討ちにした為、恵美僧正は朝廷にこの事を報告すると国司の佐渡島流罪が決定、しかし、守護神である伊香保大明神は手緩いとして近くの山々から山の神を集めて石楼を造り、そこに国司と目代を閉じ込め焼き殺したそうです。恵美僧正は水沢寺を改めて差出山の弥陀峰の大平に再建しようとしましたが、そこには温泉が湧出ていた為困っていると、その夜、霊夢に老女が現れ温泉を瓶に詰め、弥陀峰の向こう側に持っていきました。翌朝、眼を覚ますと、源泉は止まり、逆に弥陀峰の向こう側から霊泉(現在の伊香保温泉)が昏々と湧き出るのを発見しました。その後、恵美僧正は行基菩薩の弟子である東円に別当を譲り、水沢寺の再興が成った大宝2年(702)に東円上人は行基を導師として招いて落成供養が行われたと記載されています。

伊香保温泉   伊香保温泉

以上の事から察すると、伊香保温泉は恵美僧正が発見し、行基菩薩は水沢寺の落成供養を行っただけという事になります。

さらに、時代が下がると、伊香保大明神は女神だったにもかかわらず、何時しか男神と女神と別れ、男神は伊香保温泉の守護神として温泉街の一角に伊香保神社(渋川市)として鎮座し本地仏として薬師如来像が祭られ、女神は渋河保に鎮座する三宮神社(北群馬郡吉岡町)の祭神となり本地仏として十一面観音像が祭られるようになっています。この事から薬師信仰の縁が深い行基菩薩が何時しか伊香保温泉を発見し薬師如来を祭ったとの節が流布されたのかも知れません。

【 行基・実・年表 】−慶雲元年(704)に生家を改めて家原寺を創建しています。

【 場  所 】−群馬県渋川市伊香保

【 概  要 】−武田勝頼が天正3年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川の2倍以上の大軍に大敗すると、家臣である真田昌幸に命じて伊香保温泉を整備させ、傷ついた兵を慰労したとされます。現在見られる石段の温泉街はその時に町割されたもので、奥にあった源泉を傾斜地に流し、両側の湯宿に効率的に引き込めるようにしたとされます。その際に、温泉の引き込みが許された有力者達は現在でも伊香保温泉で温泉旅館を経営しているそうです。伊香保温泉の支配は武田家滅亡後は白井宿(群馬県渋川市白井・旧北群馬郡子持村)を本拠とした白井長尾氏、白井長尾氏が滅ぶと、安中城(群馬県安中市)の城主井伊氏、江戸時代初期の寛永9年(1632)以降は天領となっています。伊香保温泉は草津温泉四万温泉と共に上毛三名湯に数えられています。

【 行基・周辺・史跡 】−水沢寺(群馬県渋川市:行基が落成供養)

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※ 「行基菩薩と温泉」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。ただし、推論、私論ばかりなので最終的の責任は負いかねますので、問題等ありましたら自己責任でお願いします。リンクはフリーですが写真、文章の利用は許可しませんので御理解の程よろしくお願いします。