伊香保温泉・温泉街

伊香保温泉(群馬県渋川市)の歴史は古く天平時代に行基菩薩によって開湯されたと伝承があり、地名(伊香保=いかほ、歌枕)は度々万葉集にも唄われています。現在の伊香保温泉の町並みが形成したのは戦国時代、伝承によると長篠の合戦の後で敗れた武田兵の傷を癒す為、武田勝頼が真田昌幸に命じて源泉から効率的に温泉を宿に引き込むように計画したのが始まりとされます。武田信玄以降、武田家は家臣達の福利厚生に力を入れ領地内には信玄の隠し湯と呼ばれる信玄が整備開発した温泉地が多く、勝頼もその政策を踏襲したのかも知れません。天正10年(1582)に武田勝頼の自刃を持って武田家が滅びると、白井城の城主白井長尾氏が支配、長尾氏は関東管領上杉氏の重臣として大きな影響力があり、本拠である白井城の城下町である白井宿(群馬県渋川市)周辺には多くの史跡が残されています。天正18年(1590)、白井長尾氏が没落し、徳川家康が関東地方に移封になると、伊香保温泉周辺は安中城(群馬県安中市)に配された徳川家家臣井伊直政の支配となり、寛永9年(1632)以降は幕府の直轄地(天領)となっています(明治時代初頭は前橋藩領)。江戸時代後期になると一般庶民の湯治客が増え、明治時代に入ると夏目漱石、竹久夢二、野口雨情などの文人墨客なども訪れ飛躍的に知名度が全国区に広がりました。現在は近代的な建物に建て替えが進んでいますが、階段の両側には温泉宿の他、土産屋や飲食店が建ち並び伊香保温泉独特の町並みを形成しています。最上部には伊香保神社(渋川市)が鎮座し平安の時代から歴史の変遷を眺めています。

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伊香保温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
【 伊香保神社・概要 】−伊香保神社は天長2年(825)に勧請された古社で、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳では名神大社に列する格式の高い神社です。往時は貫前神社(群馬県富岡市)、赤城神社(本社は諸説あり、三夜沢赤城神社:群馬県前橋市三夜沢町・大洞赤城神社:群馬県前橋市富士見町赤城山・二宮赤城神社:群馬県前橋市二之宮町がそれぞれ本社を自称しています。)に次ぐ上野国三之宮とされます(延喜式神名帳で上野国に鎮座する神社は合計12社あり、その上位から3番目に列記されていた)。当初は他所に鎮座していたようですが、平安時代頃に伊香保温泉の守護神として現在地に遷座しました。江戸時代に入ると神仏習合し寛永年間(1624〜1645年)に開山した温泉寺が別当寺院として祭祀を司りました。神仏習合時代には「湯前大明神」などと呼ばれていましたが、明治時代に入ると神仏分離令と、廃仏毀釈運動により温泉寺は廃寺となり、社号を「伊香保神社」に改め県社に列しました。その際、隣地あった医王寺の薬師堂が温泉神社となり摂社となっています。元々は「いかほ」の山々自体を信仰する自然崇拝だったものが、神として具象化して「いかつほの神」を祀るようになり、伊香保温泉の守護神となった事から、温泉神とされる大己貴命と少彦名命が、神仏習合した事で本地仏として十一面観音像が祀られるようになっています。

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