行基と湯田中温泉

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湯田中温泉との関係性

【 行基・伝説 】−詳細は不詳ですが奈良時代に行基菩薩が開湯したとの伝説が残されています(湯田中温泉が渋温泉と同年代に行基菩薩から発見されたと仮定すると神亀年間(724〜729年)となります。)。一方、天智天皇(第38代天皇・在位:668〜672年)の御代に智由が巡錫で当地を訪れた際に偶然源泉を発見し、自ら石造の弥勒菩薩像を制作し温泉の東方に安置したとの伝説も残されています。隣接する渋温泉が行基菩薩により発見されたという伝説が残されている事から時代が下がると、智由と行基が混乱して伝えられたのかも知れません。因みに知由(沙門智踰)とは飛鳥時代の僧侶で、「日本書紀」によると斉明天皇4年(658)に日本初となるからくり人形である指南車を製造し天智天皇5年(666)に天皇に献上した事が記載されています。

【 行基・実・年表 】−神亀元年(724)、和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に清浄土院(高渚寺)とその尼院を建立。神亀2年(725)、河内国交野郡(大阪府交野市・枚方市・寝屋川市の一部)に久修園院を起工。神亀3年(726)、和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に檜尾池院を建立。神亀4年(727)、和泉国大鳥郡(現在の大阪府堺市)に大野寺とその尼院を起工。

【 場  所 】−長野県下高井郡山ノ内町

【 概  要 】−智由が発見した大湯は長命長寿の功能があるとして「養遐齢」と呼ばれました。その後衰微しましたが平安時代末期の大治年間(1126〜1131年)に来光が巡錫で当地を訪れた際、湯田中温泉を再興し、土中に埋もれた智由が製作した石造弥勒像を掘り出し再建したとされます。江戸時代に入ると、松代藩(長野県長野市松代町:本城−松代城)の藩主真田家の庇護を受け、源泉を城代の御殿まで運ばせたとの記録が残されています。文人墨客からも愛され、小布施に長く逗留した江戸時代を代表する俳諧師小林一茶も湯治に訪れています(湯田中温泉湯本の主人である希杖・其秋父子が小林一茶の門弟だった事が大きく起因しています。又、湯本は旅籠屋第一号の鑑札を現在でも大切に保管されているそうです)。近年では共同浴場番付の東の横綱に番付されています。

【 行基・周辺・史跡 】−小菅神社(長野県飯山市:行基が八所権現の本地仏を彫刻、加耶吉利堂を造営して安置)・野沢温泉(長野県下高井郡野沢温泉村:行基開湯伝説)・渋温泉(長野県下高井郡山ノ内町:行基開湯伝説)

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行基菩薩縁の温泉

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※ 「行基菩薩と温泉」は「郷土資料辞典」、「日本の城下町」、「観光パンフレット」、「観光地案内板」、「関係HP」等を参考にさせていただいています。ただし、推論、私論ばかりなので最終的の責任は負いかねますので、問題等ありましたら自己責任でお願いします。リンクはフリーですが写真、文章の利用は許可しませんので御理解の程よろしくお願いします。