草津街道: 長野原宿

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長野原宿

長野原宿・概要: 長野原宿は草津街道と信濃支道 (上田街道)との分岐点として発展した宿場町で古くから六歳市(毎月4・9の日)が開かれ蒔や炭、麻などが売買されました。

長野原諏訪神社: 境内は永禄6年(1563)に行われた長野原合戦の古戦場跡で、毎年4月24・25日の例祭には獅子舞が奉納されています。拝殿は入母屋、瓦棒葺、平入、桁行3間、梁間4間、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造、素木板張(本殿は覆屋内部の為に不詳)。祭神:建御名方神。

雲林寺: 大洞山雲林寺の創建は鎌倉時代の弘長3年(1263)に龍幡和尚により開かれたのが始まりとされます。その後荒廃しましたが、室町時代後期の永禄2年(1559)、当時の領主海野幸光が現在地に堂宇を造営、為景清春(長源寺9世)を召還し再興しています。天正9年(1581)真田昌幸の侵攻により海野氏が滅ぼされ一時衰微しますが、江戸時代に入ると沼田藩主(群馬県沼田市)となった真田家により庇護されています。天明3年(1783)に浅間山大噴火による土石流により堂宇は大破しています。明治22年(1889)に周辺の村々が統廃合し長野原町が成立すると役場庁舎が無かった事から境内が仮庁舎として利用されました。三原郷三十四観音霊場第1番札所(作道観音堂)。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。

長野原城: 長野原城の築城年は不詳ですが羽尾氏(海野氏一族)によって築かれたとされ、その後、羽尾氏の一族である鎌原氏を経て戦国時代には斎藤氏が城主となっていました。永禄5年(1562)、武田信玄の家臣である真田幸隆の侵攻により長野原城は落城、幸隆の弟である常田隆永が城主として配され、岩櫃城の斉藤憲広と対立状態となります。永禄6年(1563)、憲広は長野原城奪還を画策し、この戦いにより隆永は討死し再び斉藤家の持ち城となり家臣が城主となっています。その後、斎藤家の家臣の分断などもあり、その隙を突かれ居城である岩櫃城が落城、長野原城も破棄され再び真田氏の持城となり草津温泉(日本三名泉)の湯守として知られた湯本善太夫が配されています。天正10年(1582)に武田氏が滅ぶと文献などで長野原城が記載される事はなくなっています。現在でも郭の形状や土塁、空堀などの遺構が見られ平成2年(1990)に長野原町指定史跡に指定されています。

草津(信州)街道・宿場町

高崎城
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長野原宿
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その他の草津温泉(日本三名泉)への道

大笹街道: 福島宿−仁礼宿−鳥居峠−大笹宿−鎌原宿−狩宿宿−須賀尾−須賀尾峠−長野原宿−草津温泉(湯畑
沓掛街道: 沓掛宿(中山道:長野県北佐久郡軽井沢町)−狩宿宿−須賀尾−須賀尾峠−長野原宿−草津温泉(湯畑)
草津街道: 新町宿(北国街道:長野市)−中野(中野市)−渋温泉(山ノ内町平穏)−渋峠−草津温泉(湯畑)
真田道: 沼田城下中山宿(三国街道)中之条町原町郷原−大戸宿−須賀尾−長野原宿−草津温泉(湯畑)
山田道: 小布施宿(長野県小布施町)−山田村−山田峠−草津温泉(湯畑)

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