鶯宿温泉・温泉街
鶯宿温泉(岩手県雫石町)は天正年間、加賀国(現在の石川県)の加賀助が当地に土着し開発を進め、その加賀助が傷ついた鶯が水溜りで傷を癒しているので、近いづいてみると温泉が湧き出るを発見し湯槽を整備しました。鶯宿温泉は祇陀寺住職などが効能を広め為、盛岡藩(岩手県盛岡市:本城−盛岡城(国指定史跡)の藩主の奥方が御仮屋を設けて度々利用するようになり宝永2年には南部信恩が家族と家臣を連れ立って湯治に訪れています。享保年間に雫石出身の嶋屋一佐エ門によって本格的に開発が行われ次第に湯治客も増えるようになり藩主や一族の湯治や慶応4年には源泉をわざわざ盛岡城に運ばせ入浴を楽しみました。盛岡藩では藩内の大湯温泉(秋田県鹿角市)、繋温泉(岩手県盛岡市)・鶯宿温泉(岩手県雫石町)・湯田温泉(岩手県西和賀町)・台温泉(岩手県花巻市)の5つの名湯を盛岡藩五湯と呼び、保養地として保護しました。
盛岡城: 盛岡城は寛永10年(1633)に竣工した盛岡藩の本城で、藩庁と藩主である南部家の居館が設けられました(寛永11年:1634年に火災で焼失しましたが、翌、寛永12年:1635年には修復が完了しています)。東北地方には珍しい総石垣の平山城で本丸には天守閣に見立てた三重櫓が建てられました。明治4年(1871)に廃藩置県により盛岡藩が廃藩になると盛岡城も廃城となり、多くの施設が破却、又は払い下げとなり城内から撤去されました。その後、城跡は岩手公園として整備されました。岩手公園は市民の憩いの場として親しまれ、岩手県が産んだ宮沢賢治や、石川啄木も訪れており、啄木は「不来方の お城の草に寝ころびて 空に吸はれし十五の心 」の歌を残しています。
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