十和田大湯温泉・温泉街

十和田大湯温泉(秋田県鹿角市)の開湯は不詳ですが鎌倉時代初期に、傷ついた熊が大きな石に座り、傷口を湯(現在の荒瀬共同浴場)に浸し癒しているのを発見したとの伝説が伝えられています。記録的には文明元年(1468)に現在の下の湯共同浴場が既に存在していたとされ、その後も川原の湯共同浴場が寛永元年(1624)、上の湯共同浴場が万治元年(1658)に発見されています。大湯の地は江戸時代に盛岡藩南部家の領内で、要害屋敷が置かれた鹿角と本城である盛岡城の城下町を結んだ来満街道沿いにあった事から宿場町として整備され、さらに、温泉街として延宝年間(1673〜1681年)に開発されています。盛岡藩では藩内の5つ(盛岡藩五湯:大湯温泉・繋温泉(岩手県盛岡市)・鶯宿温泉(岩手県雫石町)・湯田温泉(岩手県西和賀町)・台温泉(岩手県花巻市))の温泉を藩の保養地として保護し、大湯温泉はその内の1つ「鹿角の名湯」として知られました。特に現在の下の湯共同浴場の場所には藩主南部家専用の藩主御留風呂をはじめ、身分によって御用人用、下士用、一般庶民が誰でも入れる湯船と合計4箇所の湯小屋が設けられました。さらに、周辺には藩内最大の尾去沢鉱山はじめ不老倉鉱山や小坂鉱山など大規模鉱山が点在し、その工夫達の保養所でもあり大きく賑いました。紅葉や新緑の季節などは十和田湖の南部側では最も近い温泉街として多くの湯治客が利用し、現在は温泉街というよりは温泉旅館が数軒と上記の共同温泉が点在する温泉地といった方が当てはまる印象を受けます。

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大湯温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
現在、秋田県で「大湯」といえば「十和田大湯温泉」より「大湯環状列石」所謂「ストーンサークル」の方が有名です。大湯環状列石は昭和6年(1931)に発見された縄文時代後期の大型の配石遺跡で、大きく野中堂遺跡と万座遺跡の2つの遺跡によって構成されています。基本的に中央に大きな立石を立て、その下部には細長い縦長の石を放射状に組み、さらにそれらを取り囲むように大きく2重の円形状に自然石が配され、さらに大きな円形の中には小さな円を意識した配石遺構が複数配置されています。初めて見た人にはかなり印象に残る景観が創り上げられている事から、当初は縄文人の埋葬施設や、司祭施設、日時計など様々な説が挙げられました。さらに、大湯環状列石から北東に位置する黒又山は見る方角によっては綺麗な円錐形に見える事から大湯環状列石との関係性を示唆する説や、中には人口のピラミット説を唱える人もいます(当時は山頂に環状列石で見られるような石組があったとされますが、現在は破却され、薬師神社の社殿が建立されています)。

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