白布温泉・温泉街

白布温泉(米沢市)の歴史は古く、正和元年、佐藤宗純(元武士)が傷ついた鷹が温泉に浸かっているのを発見したとも、正和年間、猟師が獲物を追っていると偶然、鷹が湯浴びで傷を治しているのを発見したとも、佐藤常信(出羽国荘司)が眼病を患い笹野観音に祈願すると、観音様が夢の中に現れ温泉の場所を教えられ、早速、そこに行ってみると傷ついた鷹が温泉に浸かっているのを発見し眼病も全快したと云われています。古くから名湯として知られ、戦国時代には伊達輝宗や伊達政宗が湯治に訪れ、寛政2年には米沢藩9代藩主上杉鷹山が白布温泉に入った事が日記に記載されています。米沢藩では最奥地に位置し人里離れていた事から慶長9年から数年の間、直江兼継(上杉家執政)は火縄銃の製造を行い1000挺の火縄銃が造り出されています。又、標高が高い位置に温泉場が設けられた事から信夫高湯最上高揚と共に奥州三高湯の一つに数えられました。白布大滝などが見所です。温泉街という印象は受けませんが、茅葺屋根の温泉宿もあり懐かしい雰囲気が感じられます。
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白布温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
白布温泉には直江兼続の鉄砲鍛造遺跡と呼ばれる遺跡があり、慶長9年(1604)に上杉家の執政、直江兼続が白布温泉で鉄砲を製造した跡地だとされます。近年は大河ドラマの影響を受けて、直江兼続も評価が高い戦国武将として紹介され、米沢市内でも川の堤防の築造や米沢城の縄張りなど多くの実績を残し、その史跡も点在しています。兼続といえば豊臣秀吉から天下の采配を任せられる人物として直臣として誘われたとか、上杉景勝が会津領(福島県会津若松市)120万石に移封になった際にはその内30万石は兼続に与えられたなどの逸話が残り、政治や行政面で大きな才能があった事が窺えます。ただし、家臣からは疎まれ蔑まれていた傾向があり兼続が健在中は表面化しませんでしたが、死後はかなりあからさまに批判の対象となっています。話しは多少複雑ですが、元々上杉謙信は代々越後守護代を勤めた越後長尾家で、一族でありながら対立関係にあった上田長尾家に謙信の妹の仙桃院が嫁いで生まれたのが後に謙信の養子となって上杉家を継いだ上杉景勝で、その執政だったのが直江兼続です。確定された史実ではありませんが謙信は家臣である宇佐美定満に命じて政景を暗殺したという説があり、景勝にしてみれば養父が実父を殺したという関係です。謙信が死去すると景勝と兼続は間髪いれずに春日山城を占拠した事も余りにも手際が良すぎる事実もあります。景勝と兼続が上杉家を掌握すると、上田長尾家出身の家臣を重用し、恩賞を厚く与えた事で外様である新発田重家は反乱を起し、大きく勢力がそがれる形となっています。関ヶ原の戦いの際も、大きな時代の流れは徳川家に傾きつつあったにも関わらず、無闇に挑発した挙句敗退し石高が30万石に減じられ、家臣もそれに伴い1/4に減らされています。多くの家臣は兼続の責任と思っていましたが、口に出すのがはばかられました。兼続が死去し暫くすると重責を担っていた上田長尾家出身の家臣達は閉職に追い込まれ、兼続の菩提寺である徳昌寺は破却され墓碑や位牌も林泉寺(米沢市)に強制的に移され、戒名に院号を付けられず、供養も行わない状態が100年以上も続きました。
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