高湯温泉・温泉街

高湯温泉(福島県福島市)の歴史は比較的新しく慶長12年、宍戸五右衛門が温泉場を整備したとも、菅野国安が温泉場を開発したとも云われています。ただし、温泉の発見は天文年間とされ戦国時代には湯税を払ったことが記録として残っていることから何らかの施設があったと思われます。江戸時代に入ると福島代官所の支配となり、池田新兵衛が代官になると湯守の3家制、湯役税の廃止、高湯道の改修、湯小屋の改修などの改革が行われ、飛躍的に湯治客が増えました。幕末の戊辰戦争の際には戦禍などにより多くの湯屋が焼失し、さらに明治15年に福島県令となった三島通庸が、庭坂村に新たに温泉地を計画した為、任期が切れ計画が頓挫するまで衰退しました。古くから白布温泉蔵王温泉と共に奥州三高湯に数えられ、平成11年に国民保養温泉地に指定されています。高湯温泉は中規模の温泉宿が数軒で構成されている温泉地で、観光地である一切経山(標高:1948.8m、俘囚長の安倍貞任が一切経を埋めたと伝えられています)、吾妻小富士(標高:1707m、直径約450m、1周約1.5キロの河口を一周するお鉢巡りが有名)、浄土平(高山植物群落、亜高山帯針葉樹林、湿原などが点在)、鎌沼、五色沼(一切経山の火口湖)などが控えている為に、観光シーズンには多くの湯治客が訪れるようです。
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高湯温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
三島通庸は「土木県令」や「鬼県令」の異名を持つ人物で、鶴岡県令、山形県令、福島県令、栃木県令などを歴任し、豪腕により各種の公共事業を推進しました。結果的には東北地方や北関東地方の近代化に大きく貢献したとも言えますが、当時の住民にとってはかなりの負担だったようで度々騒動が勃発し、さらに住民が自由民権運動と連動してかなり大変だったようです。しかし、通庸の葬儀には1万2千人が参列したと云われ、関係者が多く大きな実績を挙げていた事が窺えます。では高湯温泉の場合はというと、やはり負の部分が大きかった事例の1つと挙げる人が多いようです。簡単にいうと、元々あった高湯温泉の復興を無視して、自分が住む知事官舎や官僚の官舎が集まる庭坂村に源泉を態々引いて庭坂に温泉街を造る計画を実行しました。これは地元の経済興隆の計画というよりは自分達の保養や余暇を充実させる事が主目的で、庭坂の湯量を確保する為に高湯温泉の湯宿には源泉を引き入れる事を禁止してます。
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