遠刈田温泉・温泉街

遠刈田温泉(宮城県蔵王町)の開湯伝説は多数あり、1つは平安時代、橘次により発見されたとの伝承が残されています。橘次は平安時代末期の豪商、金売吉次の事で、基本的には実在が疑問視されている伝説的な存在で、軍記物として歴史的な価値が低いとされる、「平治物語」や「平家物語」、「義経記」、「源平盛衰記」など登場しています。これらの軍記物の影響を受けて、全国に金売吉次の伝承や墓碑などが点在し、遠刈田温泉に伝わる伝承もその1つで、近くにある岩崎山金山を発掘中に偶然、源泉を発見したと伝えられています。

1つは、蔵王山の中腹にある三階滝(日本滝100選)の滝壺に住んでいた蟹が大きくなった為、より大きな不動滝の滝壺に移ろうとすると、そこの主である大鰻と争いが起き、激闘の末大鰻は3つに分断され頭部が青根、腹部は峩々、下部は遠刈田に投げ捨てられそこから温泉が湧き出したとされ、伝説に起因してか、青根温泉では頭、峩々温泉では胃腸、遠刈田温泉は足腰に効能があるそうです。

1つは江戸時代初期の慶長6年(1601)、会津若松城(福島県会津若松市)の城主蒲生氏郷の家臣大沼勘十郎が当地に配され、土地を開墾していた際、偶然岩崎山金山を発見し、その採掘中に源泉が湧出てきたと伝えられています。

江戸時代に入ると蔵王権現が仙台藩主伊達家の崇敬社として庇護され、民衆からも御山参りとして多くの参拝者を受け入れた為、その拠点として遠刈田温泉が飛躍的に発展します。又、温泉場としては鳴子温泉土湯温泉温湯温泉と共にコケシの産地としても知られています。共同温泉は「神の湯」と「壽の湯」の2箇所で観光客にも低料金で開放されています。温泉街は蔵王信仰の宿坊街から発展した思われますが、里宮だった刈田嶺神社以外は比較的新しい建物に建替えられたようです。大型の温泉旅館の他、小規模の旅館や飲食店なども点在、道路や歩道が整備され明るい印象を受けます。又、特産品でもある「遠刈田こけし」の生産地でもあり、鳴子温泉(宮城県大崎市鳴子町)の「鳴子こけし」と土湯温泉(福島県福島市)の「土湯こけし」と共に日本三大こけし発祥の地に数えられています。

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遠刈田温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
遠刈田温泉は蔵王信仰の拠点になった温泉で、鎮守として蔵王刈田峰神社の里宮が鎮座しています。蔵王山は度々噴火を繰り返し、山容が美しかった事から古代から自然崇拝の対象として崇められ、時代が下がると山岳信仰の修行場として発展を遂げました。特に修験信仰の中心的な存在だった金峯山寺(奈良県吉野町)から本尊である蔵王権現の分霊を勧請した事から何時しか蔵王山と呼ばれるようになり、その霊験から周辺の領主から崇敬庇護されました。蔵王権現を守護神として別当寺院となったのが願行寺で、往時は数多くの支院を擁し大寺院として発展しましたが時代が下がると衰微し廃寺となってしまいます。遠刈田温泉に境内を構え支院の1つだった嶽之坊は願行寺を信仰を受け継ぎ、蔵王権現を細々と守っていましたが、江戸時代に入ると蔵王山が仙台藩の藩庁、藩主居館が置かれた仙台城(宮城県仙台市)から見ると南西方向にあたる為、裏鬼門鎮守として藩主伊達家から庇護の対象となり寺運が隆盛しました。江戸時代中期以降になると一般庶民からも信仰の対象となり、遠刈田温泉を拠点として蔵王山の山頂に登拝する人が急増し、それに伴い登拝口と山頂を管理した嶽之坊も繁栄を極めました。明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は仏式が排除され寺号も刈田峰神社に改称、山頂の祠も刈田峰神社の奥宮となり現在に近い形式となっています。

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