土湯温泉・温泉街

土湯温泉(福島県福島市)は大穴貴命が陸奥国の視察で訪れた際、荒川の畔を鉾で突くと霊泉が突然湧き出したと伝えられています。温泉が鉾で突いた事から「突き湯」と呼ばれ、それが転じて「土湯」という地名になったとされます。又、別の伝承では推古天皇12年、聖徳太子の命を受け当地に赴任した泰川勝が重病となると聖徳太子の尊象が霊夢に立ち土川の地に霊泉が湧き出ているので、入浴すると病気が完治すると御告げを受けました。勝は土川まで何とか辿り付くと、御告げがあった霊泉を発見し湯浴びをすると不思議に健康に戻ったと伝えられています。歴史に明確なものとしては文治5年に編纂された鎌倉時代の歴史書である「吾妻鏡」には土湯温泉と思われる記述がある為、少なくともそれ以前には存在していたと思われます。中世には吾妻山修験が盛んになり土湯温泉が拠点の1つとして多くの修験者が利用したとされ里宮として熊野神社が勧請されています。江戸時代に入ると二本松藩や代官所が温泉地の開発が行われ、特に福島代官池田新兵衛と大森代官鈴木兵十郎は土湯温泉の開発に尽力した事で興徳寺境内に顕彰供養碑が建立されています。さらに、福島城(福島県福島市)の城下町と会津若松城(福島県会津若松市)を結ぶ土湯街道の宿場町でもあり、多くの旅人や商人も土湯温泉を利用したと思われます。又、特産品でもある「土湯こけし」の生産地でもあり、鳴子温泉(宮城県大崎市鳴子町)の「鳴子こけし」と遠刈田温泉(宮城県蔵王町)の「遠刈田こけし」と共に日本三大こけし発祥の地に数えられています。土湯こけしの特徴は比較的頭が小さく、胴細め、鯨目、丸鼻、おちょぼ口、ろくろ模様、大きく描かれた紅色のカセなど、江戸時代後期の文政年間(1818〜1830年)に佐久間亀五郎が考案し、跡を継いだ弥七が発展させ現在に近い特徴が確立したとされます。土湯温泉は温泉街らしい雰囲気が残されている町並みがあり、足湯なども整備されています。

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土湯温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
温泉街は山の麓に多い事から山岳信仰の拠点になる例も多く、土湯温泉の温泉街も吾妻山修験と関係が深い土地柄でした。飛鳥時代から奈良時代の呪術者で修験道の開祖とされている役の小角が吾妻山を開くと、土湯温泉の温泉街には現在の熊野神社の前身となる大寺院があり西海子坊・松之坊・桂之坊・率都坊・榧之坊・柿之坊の6坊を擁していたと伝えられています。現在、6坊の所在は不詳ですが、宿坊を兼ねていた事が想像される事から、温泉宿として存続した坊もあるのかも知れません。吾妻山信仰も当初は吾妻権現が祀られていたと思われますが、何時しか土湯温泉の守護神として様変わりして伊邪那美尊を主祭神とする熊野神社となっています。

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