温湯温泉・温泉街

温湯温泉(青森県黒石市)の開湯伝説は400年以上前に神山右仲が汗石川の川辺に生えている葦原に傷ついた1羽の鶴を浴し7日後に回復し飛び立つの見て源泉を見つけたが始まりと伝えれています。以来、「鶴泉」や「鶴羽立」などと称され湯治客で賑わいました。天正19年(1591)、この地を領した工藤治郎左右ェ門(浪岡城(※1)の城主北畠家の重臣)が整備開発を行い、寛永元年(1624)には花山院忠長卿が入湯しその効用に絶賛し、温もりも長く保つ特徴から温湯と名づけています(既に温湯という地名は古文書に記載されているので、単なる伝承とされます)。明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラ・バードも温湯温泉を訪れ、入湯はしなかったものの当時の温湯温泉の様子を記載しています。それによると、温湯温泉はリウマチと眼病に功能があり、4つ建物のうち端2つが女性と子供用、真ん中の2つが混浴に区別されていましたが、中に入ると事実上全て混浴になっていて、明治政府が混浴禁止をうたっても、地方に浸透するのには時間がかかるようだと記載しています。明治18年(1885)の内務省より温泉分析が行われ日本の名湯に指定され、現在も日本の名湯100選に選定されています。

※1−浪岡城は平安時代後期に奥州平泉(現在の岩手県平泉町)で一大文化を築いた奥州藤原氏の一族が築いた館跡に、南北朝時代の南朝の有力武将だった北畠親房の後裔とされる北畠顕義が長禄年間(1457〜1460年)に改めて築いたとされます。北畠家は浪岡城を本城にして長く当地を支配しましたが、戦国時代の天正6年(1578)、又は天正18年(1590)に大浦為信(陸奥弘前藩初代藩主)の策略により略奪され、北畠家も大名家からは没落します。その後、浪岡城は廃城になったと思われます。現在も当時の遺構が明瞭に残され歴史的にも大変価値が高い事から国指定史跡に指定されています。

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温湯温泉・温泉街
歴史、つぶやき、独り言
花山院忠長卿(従四位上左近衛少将)は京都の公家で、慶長14年(1609)に後陽成天皇の女官と密通した事が露呈した事で蝦夷地へと配流される事となりました。当時の朝廷には猪熊教利(左近衛少将)と呼ばれる絶世の美男子の公家が宮廷に仕える女性など数多くの女性と関係を持ち問題となっていました。1度京都から追放されたものの再び京都に舞い戻り仲間の公卿を誘っては女官と不義密通を重ね、その中の1人に花山院忠長が入っていました。忠長は後陽成天皇の寵愛を受けた広橋局(大納言広橋兼勝の娘)と不義密通を重ねていた時、猪熊教利と関係が深い飛鳥井雅賢に恨みを抱く松下家が密告し、所謂「猪熊事件」として芋づる式に事が露呈し処罰の対象となりました。当初は松前藩(北海道松前郡松前町:藩庁−松前城)に流されましたが、予想以上に厚遇されたようで、京都の文化を蝦夷地に伝えた人物となっています。慶長19年(1614)に弘前藩(青森県弘前市:藩庁−弘前城)に流刑地替えとなり、黒石(現在の青森県黒石市)や高屋(青森県弘前市岩木)、弘前本地に軟禁され、寛永13年(1636)に赦免、慶安5年(1652)に京都に戻っています。青森県内で忠長がどの様な行動をしていたのかは信憑性のある資料は少なく判りませんが、比較的自由に行動したようで、松前藩と同様に弘前藩の文化にも影響を与えたのかも知れません。特に温湯温泉をはじめ各地で伝説じみた逸話や伝承などが残されおり、京都出身の公家と関係が深い事を主張する事からその地域や家の格が上がるような風潮があったのかも知れません。
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